野村 文男 氏 「自主・自立を貫いて」

04_nomura野村 文男(のむら ふみお)氏
(株)常いち寿司 (名誉会員・中村地区)

1939年生まれ。同友会で学び、当時には珍しく寿司専門店として多店舗展開する。1964年1月に入会し、「同友会まつり」や「ビックリセール」の実行委員長、また広報委員長を始め、副代表理事(第3ブロック長-当時)など役員を歴任。また、ゆたか福祉会の理事を長年にわたって務め、現在、障害者問題委員会で活躍中。

最初の役目は万歳

私は二十四歳の時、友人のお父さんである佐藤鉱一氏(佐藤自動車工場、故人、第二代代表理事)から誘われたのが同友会との出会いでした。一九六四年一月の入会ですから、創立一年少ししか経っていない時でした。県の総会に行くと親父の年齢の方ばかり。何も説明を受けていない私の最初の役目は、会場の後ろの席に座り、(賛成ですと)両手をあげることでした。

当時の勉強会は資金繰りの話が多く、難しくてよくわからなかったです。しかし、経営コンサルタントであった伊藤金光氏の話は科学的で、アメリカ流の経営戦略を学び感心したのを覚えています。

同友会理念は特に意識していなかったです。とにかく同友会では、胸襟を開いて語り合い、さまざまな人との出会いがあり、出会った人がさらに良い人を紹介してくれ人脈が広がりました。

会の資金繰りで東奔西走

何事も意気に感じてやっていたので様々な役を務めました。ゆたか福祉会では、同友会の代表として八六年から九三年まで理事を務めました。

広報委員長を任じられた時は、資金的に厳しく毎月ストレスが溜まりました。年四回機関紙を出すのがやっとの時代もあったのです。財務委員もやりました。「同友会債」なる債権を発行してお金を集めたこと。その他、即売会である「同友会まつり」の責任者を務めた事もあります。

そうそう。「同友会会館」という事務所を建設しようという話も出ました。結局、立ち消えになりましたが、お金にまつわる苦労はかなりの間続いたのを覚えています。

会費がうまく集まらないので北海道に視察にも行きました。当時の北海道同友会の事務局長は国吉さん(現中同協専務幹事)でした。彼に会費が集まる秘密を聞いたところ「メンバーの自己意識が違うのでしょう」とあっさり言われました。

簡単にシステムを変えればできると期待したのにがっかりしました。しかし現在の愛知同友会にはこの「自立」という意識が受け継がれてきていると思います。

さらに同友会を深耕する

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「ビックリセール」に出店

残念でならないのは、同友会を中途半端に辞めていってしまう方がいることです。入会五年までに半分が退会するそうですね。十年も同友会にいてみてください。その間、勉強にもなるし、びっくりするような経営者にも出会えるのです。また、何か経済情勢に変化があると、それに対処するための情報も入るのです。

また私の経験からすると、役を与えられると知り合いが増えます。さらに、ある一定の組織が任されるなら、それは、その規模の会社を運営していく練習にもなるのです。

そこにいる人達は、海千山千の経営者達で、なかなかまとまりません。でも同友会でなら失敗しても良いのです。役を受ける事で厳しく経営者として鍛えられます。

多くの経営者を見てきました。会社の規模が大きくなると人間への関心は薄れてくるのですね。しかし、本当に学ばなければならないのは、この人間についてです。会員の皆さんには、もっと同友会を深めて欲しいと思います。

運動の鍵は事務局にある

愛知同友会は五千名の会勢を目指しています。一九七〇年後半に会勢が千名に躍進した時期、私達が何をしてきたか。それは会のセンターである事務局体制をまず固めたことです。

事務局の仕事はわかりにくいですが、誰にでもできる雑務ではなく、事務局ならではの仕事ができる仕組みが必要です。

かつては異端だった同友会も時代のまん中に来ています。そのためこれまで以上に、行政・他団体・研究者・マスコミなどとの接点が増えると思います。そのセンターとなる事務局の充実は、五千名達成の喫緊の課題といえるのではないでしょうか。

人に関心を持つ

人(経営者)と人(社員)との関係は永遠のテーマといえます。私はこれまで、経営者としてのあるべき姿を同友会で学んできました。「人を生かす経営」(労使見解)など、同友会で何十年も前に書かれた文章が、今でもみずみずしい説得力があるのは驚きです。その内容は誰が読んでも納得できますが、なかなか思う通りにはいかないものです。

最近では同友会の活動も広がってきましたが、さまざまな場面に多くの仲間の想いが込められている事に気を留めて頂ければ幸いです。

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