活動報告

どうゆうき

1945年8月15日の「玉音放送」(敗戦を告げる昭和天皇の言葉)は、小生が旧制中学1年生の夏休みの時に聴きました。父の転勤先であった栃木県北部の田舎町に住んでいた時のことです。その年の4月に父が軍属としてフィリピンのマニラへ軍港づくりのため出かけており、当時は母と妹との3人暮らしでした

▼私はその村の小学校を卒業し、一時間かけて汽車と電車を乗り継いで日光の手前の中学校に通っていました。放送自体はよく聴き取れなかったのですが、アナウンサーの説明で「日本が戦争に負けて連合国に無条件降伏した」ということが分かり、正直なところ「これで死ななくて済むんだ」と大いに安堵したことが思い出されます

▼小生が入った旧制中学では、体育の時間には教師がもっぱら「予科練(海軍飛行予科練習生)に行け。そのためにも体を鍛えろ」と叫んでいました。そのような雰囲気の中でしたが、まだ死ぬのは嫌だと思っていましたので、少しでも長く生きるためには「陸軍幼年学校」に入るのが得策かな、との結論を出しました。もっぱら2年生を対象にそのための特別課外授業をやっていたので、長く生きるための選択肢としてその授業を受けました

▼名古屋に来てからの友人の中には、小学6年生から少年航空兵に志願し、大刀洗陸軍飛行学校に入学した子がいました。彼は終戦までのわずかな期間に殴られっぱなしで、耳の鼓膜を破られたと言います

▼戦争の中を何とか生きながらえてきた身としては、平和な世の中を生きることが何にも増してありがたいことと痛感しています。

名誉会員  杉浦 正康