近藤 政雄(こんどう まさお)氏
愛知同友会協同組合 (瑞穂地区)
1934年2月生まれ。1973年同友会入会。名古屋同友会協同組合(当時)の設立に参画。71年から2代目の専務理事を務める。長年にわたり協同組合事業を牽引し、2010年8月に退任し、現在に至る。
愛知同友会創立の三年後に産声を
愛知同友会と協力関係にある「中部同友会協同組合」のことをご存じない会員の方は多いと思います。私はそこで四十五年間の歳月を過ごしました。
この組合の最初の名称は名古屋同友会協同組合といいました。一九六五年、愛知同友会が発足して三年後に四名の組合員から小さな産声をあげました。
そもそも協同組合創立のきっかけとなったのは「善意の預託」と名付けたお金の融通でした。時は高度成長時代で、大企業に「人・モノ・金」を集中させていたため、資金の借入が極めて困難だったのです。
そこで、同友会ではできない共同の事業を行い、会員企業の発展のみならず、従業員の福利厚生にも役立ち、あわせて中小企業の社会的地位の向上をはかっていこうという主旨のもと構想されたのです。
県内で初めての異業種の協同組合
しかし、船出から大変でした。当時は異業種の協同組合の前例が県内になく、愛知県商工部の許可がなかなか取れなかったのです。初代の専務理事が粘りにねばって交渉し、「前例がないからダメというのはおかしい」と最後には許可を勝ち取ったのを覚えています。
まず行ったのは、共同事業のハシリであった従業員の共同宿舎の建設やガソリンの共同購入です。その後、一九七〇年には当時では珍しかったコンピューターの共同利用事業(計算センター事業)も始めました。
それから、「善意の預託」から継承された事業。それは組合員がお金を拠出し、商工中金の「ワリショー」を買って元本を保証し、盆・暮れのボーナス資金を商工中金から借りて転貸を行う金融事業でした。十年後には数億円の資金を運用するまでになり、運営が安定してから拠出者に五%の利子をつけて全額返済しました。
企業ネットワークの接着剤役として
一九八八年には、多くの会員企業が参加できるような共同事業活動が模索され、生まれたのが「高速道路料金別納事業」でした。この事業のおかげで三十名程度だった組合員が増え、最大三百三社の利用がありました。
また、情報事業として「企業の財務状況検索事業」を一九九一年から始めました。これは協同組合にあるコンピューターで帝国データーバンクなどの持っている企業情報を代行検索して知らせるサービスです。
二〇〇七年には福利厚生に関する事業として、「保険代理店部会」と協力して、団体傷害保険等の募集や集団扱自動車保険等集金代行、また「製造物賠償責任保険(PL保険)」なども取り扱いました。
このように、同友会という会の性格上できない活動を、企業ネットワークの接着剤役として行ってきたのです。
身障者を招き伊勢湾周遊

協同組合20周年で実施した伊勢湾クルーズの船上
印象深いのは、一九八五年の協同組合二〇周年事業です。それはありきたりのセレモニーやパーティーをやめ、愛知県下のすべての身障者の団体に呼びかけ、その人々を夏の一日、伊勢湾周遊の船旅に招待するというものです。
当日は県下の各施設から集まった身体の不自由な方や付添いの方九百余名が、協同組合の借り切った豪華船で真夏の大空と果てしない海を満喫しました。
組合員は同友会員の協力も得て浄財を拠出すると共に、それぞれのアイデアや力を持ち寄って献身的に奉仕しました。相互協力と組合員企業の振興、そして社会福祉のボランティア活動を結実させた記念事業となったのです。
信頼という絆で結ばれる
もちろん大変なこともたくさんありました。今でも思い出します。「高速道路料金別納事業」で組合員が飛躍的に増える前は、計算センター事業および金融事業、ガソリン共同購買事業を主たる事業としていました。特に金融事業は、転貸融資をしていたので、協同組合の理事全員の連帯保証が必要とされていたためリスクの大きな事業でした。
これは深い信頼の上にできる事であり、貸付金額が全額回収できた時はほっとしました。裏も表もさらけ出せるほどの信頼関係がなければならず、結果としては保証限度額オーバーになってきたので、一年間の猶予期間を設けて、直接融資に切り替えて金融事業を中断後に中止しました。少しでも組合員の方々のお役に立てて、良かったと思っています。