名古屋支部1月18日新春講演会&賀詞交換会
ユーザーのために生き方を変えた経営理念
森田光徳氏シャボン玉石けん(株)・社長
1月18日「ホテルグランコート名古屋」で行われた名古屋支部の「新春講演会&賀詞交換会」には約400名が参加、記念講演に福岡よりシャボン玉石けん(株)社長の森田光徳氏をお迎えしました。また懇親パーティでは、4名の方がその場で入会されました。以下、講演要旨です。
洗剤屋が洗剤で湿しんに悩む
私は1960年頃、これから化学物質万能の世の中になると確信し、一足早く合成洗剤をつくり始めました。時流にのり、毎年売上も利益も上り、1963年にはそれまでの石けんと合成洗剤の売上が逆転しました。企業経営は言うことなしでしたが、私には1つ人には言えない悩みがありました。春先になるとベルトの周りから脇の下にかけてできる「湿しん」です。とてもかゆく、何軒も皮膚科に通いましたが、原因はわからず、宿命だと思い諦めていました。合成洗剤を始めて10年目、当時の国鉄から「無添加の石けんをつくらないか」という依頼を受け、見本を使ってみて5〜6日後、湿しんが消えたのです。この時の驚き、わが社の利益の98%まで稼いでいる合成洗剤が原因かとも思いました。
「もう毒は売らない」
全面的に無添加石けんに切り替えを決意したのは、その3年後、病気で死と直面した時です。退院したその足で会社に行き、社員全員に次のように言いました。「うちは今まで毒を売って金儲けをしていた。今日限り生産も販売もやめる。残った物はすべて処分する。そして無添加の粉と固形石けんの2種類にする」と。当時、わが社の月商は約8000万円でしたが、切り替えたら78万円に落ち、ベテラン社員がやめ、最終的には合成洗剤の時代の社員は全員退社してしまいました。
『シャボン玉党』を結成
私は1977年11月頃から、この石けんをつくるのに意義を感じ、共鳴をしてくれる人間を集めなければならないと思い、新卒採用に切り替えました。面接時に「私の会社を説明する前に皆さんに見てもらいたい」と、消費者から来た手紙を読ませました。40通くらいありました。ある学生がその手紙を読んで、「消費者から礼状がくるような仕事をしたい。ぜひ採用してください」と言ってきました。私は自分の思想を伝え、いわゆるシャボン玉党員をつくる運動を始めました。その翌年からは私の主義・主張に共鳴するものを優先して入社させました。3年、4年と自分達の理念を貫き、気がついたら18年、やっと浮き上がりました。17年間赤字だったわけです。無添加石けんを作る際に、原料は混ぜ物も一切ない油です。熱風を吹き上げると乾燥して粉になりますが、中で石けんが燃えるのです。他社はそれで失敗をしたのです。わが社は粉にする技術に成功し、ずっといいものができました。
全国に広がる『シャボン玉だより』
しかし、1990年に私は本当に追い詰められ、本を書くことにしたのです。来年までわが社があるかという瀬戸際でしたから、とにかく必死で書きました。この本は91年3月末に発売され、予想以上の反響がありました。全国の読者や流通関係からの問い合わせが殺到し、通信販売も始めました。月を追うごとに売上は鰻のぼりで、もう一方のルート販売の売上も伸びていきました。通販のお客さまには石けんの知識などを載せた『シャボン玉だより』というパンフレットを発行し、現在5万部となり、会員は先月の末で約167000人となっています。わが社はシャボン玉党の集まりですから、朝礼で「シャボン玉を好み、シャボン玉を信じ、シャボン玉を楽しみます。今日も頑張りましょう」と必ず言っています。中小企業は汗水たらして働いていて、中小企業が日本を支えていると私は信じています。
【文責事務局・野副】
森田光徳氏プロフィール
1954年学習院大学卒業後、(株)森田商店(現シャボン玉石けん(株))に入社、1964年代表取締役に就任。2000年2月、兵庫県環境にやさしい事業所賞、同年4月、九州・山口地域経済貢献者顕彰財団より1999年経営者賞を受賞。