金曜会発足35年を迎えて
ゴルフは世につれ
吉田三治吉田電気工業(株)・社長

金曜会は一九六五年九月に発足して以来、三十五年の歴史を重ねてきました。今秋十一月十七日には、発足二百回記念大会が行われます。発足からのメンバーである吉田三治氏(吉田電気工業(株)社長、南・東海地区)に発足から今日にいたるまでの思い出を語っていただきました。
コンペ一回が事務員一月分の給料
金曜会の発足は三十五年前、会員でゴルフをやっていた十五名程がオープン間もない東名カントリークラブでプレーした後、「定期的に開催しようや」ということで始まった。名称を決める時に、同友会のドの字も出なかったことを記憶している。当時、中小企業の社長がゴルフをやれるような状況ではなかったことを、参加者がよく知っていたからだ。なにしろ一回のコンペの参加費が金五千円で、当時の五千円は女子事務員の月給と同額であり、今の二十万円くらいに相当した。だから、いくらゴルフに入れ込んでいたとはいえ、同友会の同好会といった発想が出てこなかったのだろう。「金曜会」という名称はその頃の休日は日曜日であり、その前々日に、二カ月に一度やるくらいならよかろうと命名された。
球よりキャディーの笑顔が気になったが
金曜会の発足した頃のゴルフは一人のプレーヤーに必ず一人のキャディーがつき、このキャディーは若いお嬢さんであった。そのお嬢さんと半日二人で過ごすのである。球が林の中に打ち込んだ時、彼女は先に球のところに行っていて「お客さん、ココですョ」とニッコリして待っている。球を打つよりもキャディーさんの笑顔の方が気になったのは、私だけではなかっただろう。その後、このお嬢さん達がお客との付き合いで飲み屋に行き始め、きらびやかな衣装や高額な給料にあこがれ、転職していった。事実、飲み屋で水を得た魚のように別人となり働いている元キャディーさんに、遭遇したこともあった。かくして名古屋周辺のゴルフ場のキャディーさんの多くが、名古屋の夜の蝶となってしまったのである。
会内での横の連絡機能を果たす
数年後、キャディーさんはゴルフ場近くのおばさん達に変わり、電動カートが登場し、一人のキャディーが四人のプレーヤーの世話をすることになった。客であるプレーヤーがキャディーに気をつかうのが当たり前となり、キャディーに道具を持たせるのはマナーに欠けるかのようになった。このあたりで、主客が転倒していったのであった。その後、金曜会は最盛期を迎えた。一回のコンペの参加者も五十名を越えることもあり、同友会の横の連絡機能、今で言うネットワーク機能を果たしていた時期であった。この頃から女性のプレーヤーも増え、男性の百ヤード以上前の女性の赤マークから飛ばされ、ドラコン賞をよく持っていかれたものである。その後、右肩上がりの日本経済と共にゴルフ人口は増え続け、裏腹にゴルフ場は客を客として接することを忘れてしまったような状況が続いた。バブル期には五千万円の会員権を多くの人間が買ったりもした。バブル崩壊、平成不況となり、最近のゴルフ場はサービスの向上に努め、割引券を出したり、集客に懸命である。この時期に金曜会が三十五周年を迎え、初代幹事の二村一郎氏(ニムラ鋼機(株)顧問、愛知同友会相談役・名誉会員)を始め、幹事の皆さんの継続させる努力に頭が下がる想いである。