全国総会・第20分科会
地域と福祉村で拓く共生の「まちづくり」〜地域を軸に、事業体のあり方を問いかける−ゆたか福祉会の活動と「キラリンとーぷ」
鈴木峯保氏(福)ゆたか福祉会・副理事長
愛知同友会とゆたか福祉会
「ゆたか福祉会」(以下「ゆたか」)は、1968年当時、特殊学級を卒業しても働く場がない子供達に、家から通える所に職場をつくりたいという特殊学級の想いを、教師や家族、大学生が協力して工場を作ったのが始まりです。しかし、間借りしていた町工場が1年後に倒産して、15人の障害者と5人の職員が路頭にまようことになりました。当時、愛知同友会には、特殊学級卒業生の働く場や雇用問題の研究会がすでにあり、倒産後、同友会の役員を中心に再建の後押しをしてくれたのが、同友会との初めての関わりでした。それから33年、同友会会員から仕事をもらったり、私たちが取り組む環境問題にも協力いただいています。さて、私たちが一番大事にしてきたのは、障害者の働く場を作ることと地域づくりです。現在、500名の障害者がおり、職員は300名を越えています。全国6000カ所の小規模共同作業所の先駆けとなったのが、「ゆたか」なのです。私どもは、同友会が提唱する経営理念、3年の短期計画、現在第3期になる10年計画を決めて進めており、行政や地域の皆さんと一緒に施設をつくり上げています。
なぜ山間に障害者施設が
「ゆたか」は、もともと都市部での事業展開が中心でした。しかし、20年来の構想として、もっと広い土地で地元の皆さんと一緒にゆったりと、まち起こし・仕事起こし・産業起こしなどやれないだろうかと考えていました。福祉村(キラリンとーぷ)づくりにあたっての基本的な考えは以下の5点です。(1)障害の重い人達が、親の介護を得られなくなっても、安心して人間らしい生活ができる場をつくる。(人権・人間性の尊重)(2)過疎地の高齢者、障害者の介護に当たってきた高齢の親、都市高齢者の高齢期の生きがいの場づくり。(高齢者の生きがいと生産活動)(3)都市と山村の提携。地域おこし、活性化、食と農、森と水を豊かに守っていく。(JAやまびこ、生協を媒体とした地域活性化)(4)ノーマライゼーションの理念に基づき、新しい時代の福祉を作り出していく場とする。(情報発信基地として)(5)「協同」の力の提携、新しい村づくりを行う。(生活共同体、新しいモデル)また、4〜5人が一軒の家のように職員と共に生活する、日本で始めての小舎制(グループホーム)です。どんなに障害が重くても全員個室を中心に考えています。
地域への貢献事例と今後の課題
地域づくりへの観点から考えた具体例は以下です。
(1)雇用の創出職員総数85〜90名で正職員48名、いろんな形態のパート職員もたくさんいます。(2)地域への経済効果総事業費年間5億円、日常生活や人件費などで推測3〜4億円が使われています。(3)地域との交流障害者・高齢者のデイサービス事業を実施しています。(4)その他農協や道の駅に出店したり、出資金を出したり、60〜70歳の方々がボランティアで、レストランへ車椅子で入れるように傾斜をつけて頂いたり、国道の横断に地元の人が誘導してくれたりと、いろんなところで配慮や協同の営みが進みつくられています。今後の課題で地元が一番望んでいるのは、地域住民も利用できる「診療所」です。地元のお医者さん達と交流しながら実現したいと思います。もうひとつは「特別養護老人ホーム」です。補助金等が厳しくなり、今施設をつくることは大変ですが、地元の皆さんと一緒に考えながら、構想していく課題があります。県も財源が厳しい状況ですが、施設や法人、職員の都合で障害者の生活を値切らないというのが「ゆたか」のスローガンです。私たちも本来の障害者施設でお世話をすること以外に、コンサートを開いたり、利用者・職員・家族で3000人以上の集団となるので、物資販売のマージンを得て施設経営に投入したりもしています。今後は事業の多角化や介護保険事業にも参入していかなければならないと思っています。
●障害者施設の誘致を住民はどう考えたか
後藤茂氏福祉村協力会・会長
誘致まで4年が過ぎて
1994〜5年、私は地元の区長になりました。前区長の時に県から「設楽に知的障害者の施設をつくって欲しい」という要請があり、「検討してもいいのでは」という申し送りを受けていました。ちょうど私は「キラリンとーぷ」の土地を所有する大蔵寺の檀家総代もしていたので検討委員会をつくり、まず、施設関係者と話し合いをしようということになりました。「ゆたか」なら実績もあり信頼できる、と県と町も推薦してくれましたが、組長会では、「住民は嫌がると思うので賛成できない」という意見が出てきました。周辺住民・組長・区長等の総勢40名で施設見学にいきましたが、「自分達が思っていた人達とは違う。ああいう人達ならいいんじゃないか」と、反対意見も薄れていきました。とはいえ、住民と障害者との触れ合いが大事ということで、地域住民に集まってもらえる祭りやイベントを企画したりし、430軒程の檀家と細かいのも含めると何百回という会議と話し合いで、やっと了解を得ました。1997年に検討委員会は解散し、協力会へと発展しました。起工式は、施設建設の出発祭りとして、できるだけ触れあい、馴染みを深めるため、関係者300名・地元民150名あまりが参加しました。
暮らしに起こった変化
以来4年間の変化ですが、大人より子供のほうが熱心に福祉村を訪ね、毎年バザーの売上金で車椅子を寄付してくれるなど、福祉村を愛してくれています。名倉地区の生活部会が桜の木を百本植樹してくれたり、猟友会が看板を建ててくれたり、また「キラリンニュース」は設楽町全戸(2600戸)に配布しており、大きな効果をあげています。今、地域の皆さんとは非常にうまくいっています。お米や野菜購入は地元優先、ガソリン・ガスも地域のを使ってもらい3円以上のお金が設楽町に入り、ありがたく思っています。
●あいさつする後藤栄治設楽町長
「ゆたかは、まず自助努力をし、町民との互助を実現しています。それでも足りないところを公助するのが行政のつとめです」
【文責事務局・服部】