第44回定時総会
4月28日
第3分科会
全社一丸の企業づくりとは〜『労使見解』の精神を生かして

猿渡盛之氏(株)サヤカ社長(東京同友会経営労働委員長)
会社概要・設立1975年・資本金4800万円・社員数35名・事業内容省力化システム開発・製造・販売
自然にできあがった経営計画書
「安心して働けない会社」
偶然かもしれませんが、「労使見解」が発表された1975年に「サヤカ」は創業されました。私はまだ同友会に入会していたわけでもなく、「労使見解」自体も全く知りませんでした。しかし今振り返って思うのは、「労使見解」の中で言われていることは、私が経営してくる中でぶつかってきた問題だったということです。創業の経過は、私が勤めていた商社が潰れ、倒産整理が全部終ったところ、債権者である下請けからの要請があり、残っていた4人でサヤカを始めました。私が社長となり、創業5年目には初めて若い技術者が入社しました。その時の歓迎会で、専務格の社員が「社長は言っている事とやっている事が全く違う。うまい事を言って社員をこき使う」と聞き捨てならないことを言い始め、とうとう私と彼は取っ組み合いの大喧嘩になってしまいました。私は絶対に彼を首にするつもりでしたが、話だけでも聞いてみることにすると、彼らからは山の様な不満が出され、私は大変な衝撃を受けました。「皆がまとまっていて、こんな良い会社はない」と思っていたのですが、足元を見れば実際はバラバラの状態でした。「何とか給料を払おう、何とか業績を上げよう」と前ばかり見ていたのです。そこで、私は社員になったつもりで会社を点検してみると、「この会社は安心して働けない会社だ」ということに気づきました。自分では「社員が怪我をしたら全部面倒を見る。もしも死んでしまうようなことになったら家族の面倒も見る」と思っていました。しかし相手には伝わっておらず、自分の「つもり」だけで「良い会社だ」と思っていたのです。社員の意見も取り入れて、働く側と経営側の約束事を決めることにしました。
1泊合宿で本音をぶつけあう
そこで、箱根に泊り込み「就業規則づくり」を行いました。25年前のことです。「安心して働ける条件」をお互いに1つずつ確認しあいながら、就業規則をつくり上げていきました。ところが、このまま実行すると会社が経営として成り立たなくなることがわかりました。いくら売上や利益が上がれば良いのか、そのためにどうすればよいかを皆んなで議論し、レポート用紙2枚のレジュメができ上がりました。これがわが社の「経営計画書」の始まりです。翌日から会社はガラッと変わります。1カ月経つと売上が伸び、2カ月、3カ月、4カ月とさらに伸びました。人間はその気になるとすごい力を発揮します。「納得する、合意する」ということが大変な力に繋がるということを肌で学びました。4カ月後、また箱根に泊り込み、今度は「なぜ上手くいったのか」という教訓と課題をお互いに議論しました。全員が泊り込んでの「全体会議」は6人から始まり、多い時は40数人で、途中からは年に2回となり、現在まで25年間続いています。「計画を立てて実行し、見直す(PDCA)」ということを六十数回積み重ね、この中でわが社には確実に「変化」が起こってきました。
レジュメが経営計画書に
1つ目の変化は「全体会議のレジュメ」です。会議には必ずレジュメを作りますが、充実したレジュメを作ると会議が高い水準で進行します。まずお客様の状況、わが社の置かれている状況、景気の中でぶつかっている課題等を事前に調査し、数値データをつくり、4カ月に1度、グラフを出すようにしました。すると、一目でわが社は「検査計測でウェイトを占めている」あるいは「加工で占めている」ことや時間軸で並べてみると、「検査計測はずっと増えているが加工はどんどん減っている。時代は検査計測を求めているから、そういう方向へ力をいれる」などです。このようなデータに基づく分析と方向づけもできるようになりました。そして、これらを基に議論し、その結果から決められた方針のレジュメを作り、議事録として残したものを全員が持つようになりました。後日、同友会でいろいろ勉強していくうちに、わが社のレジュメこそが「経営計画書」だったとわかりました。経営のPDCA、分析、そして現状認識を共通に持つことにより、共通の方針を共有するようになりました。皆んなで情報(会社に置かれている経営情報)を共有しているので、儲かっていることを皆んなが知っているし、会社の弱点や長所などが共通の認識になったのです。
「技術商社」に変身
2つ目の変化は会社の業態を変革してきたことです。これまでは、お客様から出された図面は大田の町工場で作られ、それをまとめてお客様に納めるという方法でした。しかし、当時はビデオデッキの登場で、大手電機会社は製造技術者のほとんどをビデオ開発に当て、モノづくりの現場には人を当てなくなっていました。かつてはどの大企業にも工作部門があり、自社で使う機械は自社で作っていましたが、それらの生産設備の外注化が始まったのです。そこで、お客様の注文をわが社でも図面にできるように、設計者も入社させ、「技術商社」へと変化しました。大田の町工場で作られた商品は、品質にどうしてもむらが出ていました。そこで「自社の商品品質をもっと安定させたい」という要求が高まり、品質管理ができる体制をつくらなくてはだめだと、そのための工場も作りました。しかし時代は「ソフト化」「サービス化」が進み、大田の工場がどんどん潰れていき、今さら製造業を始めてよいのかと、私は不安に思っていました。
企業革新はエンドレス
「3・3・3」の経営
ちょうどその頃、同友会に入会し、グループ討論で知り合ったある社長の会社を見学させてもらいました。その会社は「開発イコールモノを生み出す力」「生産する力」「売る力」の三つの、バランスがとれていたのです。私は「これだ!」と思い、わが社もまねて「3・3・3」でやろうと思いました。元々営業の会社だったので、営業マンはいましたし、職人もいたので、あとは足りない「設計者」を採用し、やっと「開発の核」ができました。このような経過でわが社は製造業となり、今の当社のほとんどの製品は、当時の技術者が育てた「次の世代の人たち」が開発しています。「開発できる体制」「生産できる体制」「営業できる体制」の3つの仕組みができ、初めて自社商品を開発していく土台がつくれたと思っています。
「ハイタッチ、ハイテック」
同友会では「経営理念」が必要だと教えられ、わが社の目的をどうするかを全体会議で議論しました。その結果、「ハイタッチ、ハイテック」という言葉が生まれました。その意味するところを「人間的なふれあいを大切にし、技術の向上で応える」として以下の4つにまとめました。(1)自分たちの仕事が人間の幸せと社会の進歩に役立つことをめざす(2)一人一人が持って生まれた個性を発揮し発展させるという人間集団になる事をめざす(3)人に命令されないで自ら立ち、自ら律するそういう人間集団をめざす(4)組織と個人の創造的な発展
そこから「メカトロニクスの技術を生かし、労働の安全・高度化・効率化および商品の信頼性を高める機器を産業界に提供する」ことを経営の目標にしました。
「企業イメチェン作戦」
私が同友会に入会した大きな目的は「共同求人」で、即共同求人活動に申し込み、合同企業説明会で机を並べて学生を待っていました。ところが、周りの企業にはたくさん学生が来ているのに、当社には3日間、一人も来ませんでした。そこで、わが社の泊り込み会議で、「自分の夢が実現できるとしたら、10年後のサヤカはどんな風になれば良いんだろうか」と自分たちの夢を出し合って討論しました。若い社員たちは、最初は勝手なことを言っていましたが、「わが社の車は『精密機械』を運ぶ車とはいえない」とか、「駅から20分も歩くような会社では、社員なんか来るわけがない」など、いかにわが社に魅力がないかという話になっていました。自社の社員が「魅力がない」と思っているのに、外から見た学生が魅力を感じるわけがありません。そこで「企業イメチェン作戦」を提起しました。「作業着が格好悪い」とファッションショーで作業着のデザインを決める、サヤカのロゴを作って営業車に貼る等、色々なことを始めました。そのうち「作ってるものが格好悪い」とも言い始め、ロボットを作ろうということになリました。1年かかってロボットを作り、それからは自社のことを「ロボットメーカー」と呼び始めました。このように、いろいろなことに取り組み、会社のイメージをどんどん変えていったのです。この「企業イメチェン作戦」は、このあとエンドレスCI、エンドレスで企業の革新を続けていこうと「展示会に出る」「自社商品を開発する」という次のステップに繋がっていきました。
オンリーワン、ナンバーワンをめざして
わが社の「自立化宣言」
1986年の円高不況で、それまで伸びていた売上が一気に落ち、ほとんど赤字という大変な状態になりました。この時(86年3月)の全体会議では「11年間の総括」として、自分たちは自分たちの力で伸びているのか、あるいはお客様が成長するおこぼれをもらって伸びてこれたのか、どっちなんだという議論を行いました。その結果、「お客様の成長のおこぼれを貰うのではなく、自社固有の技術、固有の製品、固有のマーケットをつくっていこう」と決めました。これはわが社の「自立化宣言」であり、自ら立つという路線への転換となりました。
専門メーカーへの道を歩き始める
87年には、展示会に出した自社商品と、それを通じてアメリカの会社のOEMの製品などがうまくいったことで、円高不況を乗り切ることができました。ところが90年代のバブル崩壊の時期に、このアメリカの会社がライバル会社に買収され、月商6〜7千万円あった売上が一気になくなりました。同時にお客様の注文もどんどん減っていきました。3年目には、それまで14億あった年商が7億にまで落ち、このままでは会社は潰れてしまう状態までになり、事業を二つに分け、一方を開発製造販売に特化しました。電子基板は1つ1つが小さなもので、大きなもの1枚に5〜6個ずつまとめて作り、そこに部品の組付けと、ハンダ付け、そして検査もします。最後は1つ1つの基板を手で割っていきます。この「電子基板を割る」仕事は、いろいろな所からの需要がありました。単純に手でパリンと割るだけでなく、○型、△型等に「切る」要望など、たいへん贅沢な要求でしたが、初めてのマーケティングということで、わが社はその要望通りに対応しました。「電子基板を割る」仕事にともない、わが社では「基板分割機」を開発。3年目までは全く売れませんでしたが、バブル崩壊の大ピンチになった頃、売れ始めました。わが社は「基板分割機」というニッチ製品の専門メーカーへの道を歩き始めたのです。
IT不況のあおりを受け
その後のIT不況では、一時1月1億円あった売上が2千万円まで落ち、ついに人を減らさなければなりませんでした。しかし、この時にわが社を立ち直らせたのは社員の自立的な活動でした。不況ですから残業は禁止でしたが、「お金は要らないから残業をやらせろ!」と彼らは残業しました。そしてできたのが技術者がお客様と直接対話できる、当社の新しいホームページとメールマガジンです。また、利益率が非常に高くコストダウンになる開発や、今までは○型や△型に対応していたものを、まっすぐだけどもミクロン単位で切る、という「新たな分割機」を彼らは開発しました。この機械が今強烈に売上を伸ばしています。例えば携帯電話の中にはマイクが入っていますが、マイクモジュールという1ミリ角くらいのものがあります。こういうものも切るためには、○型や△型ではなく、コンマ1ミリの刃物で、ミクロン単位の精度で切ることが要求されます。基板を小さく切ることができることで、市場が拡大するのです。今、自動車の中には何十というプリント基板が入っていますが、そのほとんどはわが社の分割機で切っています。「棒ほど思えば、針ほどかなう」という言葉がありますが、自社製品を作っていこうと思い続けることによって、わが社は基板分割機でオンリーワン、ナンバーワンの企業になれました。
「労使見解」を指針に社員と共に歩む
振り返ってみると、自分の経営をあらためてチェックしていく時に、「労使見解」というものは極めて大きく役立つと思います。経営者である以上、いかに環境が厳しくとも、時代の変化に対応して経営を維持し、発展させる責任があります。その責任をどのように果たしていくのかという事が重要で、どんなに厳しくともこれに耐え抜いていく、そういう姿勢であろうかと思います。同時に、英知を結集して経営全般について明確な指針をつくる。社員に経営指針を、むかうべき方向を提示していく。こういう経営指針づくりが重要なのです。何よりも働く人とのかかわり合いが対等な労使関係に基づいていること。つまり、「使ってやる、雇ってやる」ではなく、働く側と雇用する側の間にきちんとした契約があることが大事なのです。この「労使見解」で私たちのあるべき姿、点検すべき指針というものを確かめながら、社員と共に歩んでいきたいと思っています。
【文責事務局・浅井】
「中小企業における労使関係の見解」(労使見解)
1975年に中同協が発表した「中小企業における労使関係の見解」(略称:労使見解)は、第1に経営者の経営姿勢の確立、第2に、経営指針の成文化とその全社的実践の重要性、最後に、社員をもっとも信頼のできるパートナーと考え、高い次元の経営をめざし、共に育ちあう教育(共育)的人間関係をうちたてていくこととしています。
(1)経営者の責任(2)対等な労使関係(3)労使関係における問題の処理(4)賃金と労使関係について(5)労使における新しい問題(6)労使関係の新しい次元への発展
(7)中小企業における労働運動への期待(8)中小企業の労使双方にとっての共通課題
全体では以上の8章からなりますが、第1章・第2章のみ紹介します。全文はパンフレット「人を生かす経営」に所収。以下からもご覧いただけます。
(http://www.doyu.jp/material/doc/roushi1.html)