《共生》
第8回あいち経営フォーラム第13分科会
「人」とは何か
〜共生の時代に今改めて問う〜
大田 堯氏 東京大学 名誉教授
大田 堯氏 プロフィール。
1918年広島県生まれ。
1941年東京大学文学部卒業。
東京大学教育学部教授を経て、都留文科大学学長、1983年退官。
1992年まで日本教育学会会長を務める。
東京大学名誉教授。
孤独化に向かう日本社会
人間関係が疎遠に
今の日本社会の人間関係は、孤独化に向かっているということを共通の確認としておきたいと思います。毎週土曜日の朝刊の目方を量っていますが、先日の3連休の前はとうとう1キロを超えました。本体が320グラムですから、あとの700グラムが広告です。この広告のほとんどが物欲をあおる「買いなさい、食べなさい、こういう姿になりなさい」というもので満ち溢れています。もちろん、市場経済は広告がなければ持たないので、ある程度の欲望の肥大をあおることにならざるを得ないということは考えられます。欲望が肥大すると自分中心になり、他の人との関係が手薄になってきます。日本人の歴史の中で、今ほど人間関係が疎遠になっている時代は未だかつてありません。しかも、ここ30年〜40年の間に急激に起こった現象です。
マネー経済の影響
それは、マネー経済の影響であることは言うまでもなく、お金でつながり、人格同士のつながりが疎遠になっていることが大きな問題です。その被害者は子どもと若者です。ばらばらの人間関係の中で、人間になろうと悪戦苦闘し、いろいろな欲求不満を持っているというのがごく普通の若者達の状態だと思います。他人との関係が手薄になると自分が見えなくなります。自分が見えないと自分の持ち味や自分の希望が見えなくなります。そうなると、なにが原因かわからないけれど、ムカムカする現象に陥ってしまいます。新聞紙上やマスコミをにぎわしている動機のない犯罪やキレる状態などは、孤独化現象からきているのではないかと思います。
人間は一人では生きていけない
人間は弱い動物
私は、千葉同友会の会員経営者と小さな勉強会を続けています。言いたい放題の雑談なのですが、要約しますと「人間の社会、人間の経済、人間の文化、折々の事件や日常生活」などが話題になります。ある時「文化とはなんですか」という質問が出たので、私はもぐらの話から始めました。もぐらは地下に住むことを選んだ動物で、手が発達し耕運機のように動かして土をはねのけます。また、鳥は空を飛ぶように体を変えて環境に適応してきました。人間はというと、裸のサルとも言われますが、なんの武器も持たない本当に弱い動物です。そのかわり、社会や自然に適応するために道具を使います。「人間が体の外につくった道具」それが文化ではないかとお話しました。
関わりあいの中で生きる
人間は、自分は弱くやわらかくできていて、多岐選択型の道具を使って、選びながら環境に適応していきます。裸のサルである弱い人間は、自分1人では生きられず、社会という装置を創り、人と人とのかかわり合いを持たなければ生きられない動物です。そのくせ、実は自己中心にできていて、例えば、今ここに爆弾が落ちたとすれば、私は他の人を置いて真っ先に逃げてしまうでしょう。人間は、他の動物と同じように自分の命を守ることに1番敏感で、自己中心であると同時に、社会関係の中に生きなければならないという基本的な矛盾の中で右往左往し生涯を送っているというのがその姿ではないでしょうか。共生、共育というものは、裸のサルの社会における原点です。ところが、現実の社会は、汗を流して競争する、あるいはどうお金を儲けるかという自己中心的な方向へ流れています。人間はかかわりの中で自分を見出していくのですから、自己中心になればなるほど自分が見えなくなります。そういう状況に陥りかけているのが現在の日本社会の人間ではないかと思います。お互いに競い合うという意味において他者を気にしてはいるけれども、かかわりは実に疎遠になっていると言えるでしょう。
成果で競い合う社会
競争と人間の共存
千葉同友会の勉強会では、こうした自己中心と社会的なあり方の葛藤を愚痴や希望という形で率直に話し合っています。その勉強会に参加する社長さんが翌朝直面するのは、マネーの問題であり競争の問題です。サークルでは人間や社会の問題を話し合い、他方で競争原理の社会にぶち込まれなければならない現実、これもまた大きな矛盾として存在しています。いろいろりっぱな話をしたあとで「やっぱりお金だ!」と言う人がいたとしても、そう思って当たり前だと思います。つまり、金と人間、マネーによる競争と人間の共存のあり方、これがいつも緊張関係の中にあるということです。そして、我々にいろいろな問題をつくってくれているのです。
本当の教育とは
日本の教育界もたいへんな競争原理の中にあり、よい大学に入って、よい会社に就くためにテスト競争で一生懸命です。しかし、それが教育でしょうか。1人ひとりの子どもや若者のかけがえのない持ち味を引き出すのを、周りから助けるのが本当の教育です。私は、若気の過ちで教育を「人を教え、変え、よい人を作りあげて社会を改造するもの」と考え、その気負い立った考えを修正するのに50年が経ちました。太平洋戦争で南方の最前線に兵隊としていたときのことです。農民兵や漁民兵と一緒に家をつくり食糧を育て生きる中で、第1次産業の厳しさとたくましさを教えられ、農民や漁民の方々から学ばなくてはならないと強く思いました。生命あって日本に帰ることができ、農村や漁村をたずねて仕事をしていましたが、千葉県のある漁村の学校で講演をすることになりました。
30年前の心の傷
講演当日、“おかもの”と呼ばれる色の白いお母さん達が集まる中で、日焼けした筋骨たくましい、ひと目で漁師とわかる人が最前列で熱心に聞いてくださっていました。私は、講演中その漁師さんが気になってしかたがありませんでした。ところが、講演が終わるとその人が手をあげたので何を聞かれるのかとドキンとしました。彼は「質問ではありませんが」と話し始めました。「小学校4年の国語の授業で、先生が黒板に”顔”と大きく書いてどう読むかかと聞かれました。私は思わず『ツラ』とつぶやきました。先生がもっと大きな声でとおっしゃるので『ツラ』ともう一度言いました。すると、勉強のできる子たちがわっと笑い、先生は『ダメだ、次』と別の人をさしました」。とつとつとした土地のことばで、目をらんらんとさせ、30年の恨みを一気に晴らす意気込みで語られた姿が焼きつきました。
成果よりも大切なこと
学校はこういうところであっていいのか、30年も恨みを残すような傷をほうぼうで残してきたのではないか、これは教化であって教育ではないと思い始めました。テスト教育が今ほど普及した時代はありません。点数で順番を決めて合格、不合格としてしまう。何点取るかが問題なのです。あるいは、いくら儲けたかというのも同じです。現代社会は、成果で競い合うところにきています。しかし、成果よりも大事なことは、どういう道筋を経てできたのかというプロセスを交わし合うことであり、それが本当の勉強だと思います。
考えるプロセスを大事にする
自分だったらどうする
共生や共育の原理に近いと思われる勉強の姿をご紹介します。ある女性医師(国境なき医師団)のお話ですが、「難民キャンプで、どのような手立てをしても助からない人を目の前にし、その後にはっきりと生き残り得るという人が列をつくって待っていました。この時、残り一本の酸素ボンベをどう使うのか、厳しい選択に迫られたことがあります」ということでした。彼女は母校の生徒に授業をする機会があり(NHK「ようこそ先輩」)、一番痛切な経験を伝えるべきだと思い、この酸素ボンベの話をしたそうです。これは、共に育ち合うために一緒に考える非常に重い教材だと思います。その人の1番切実な経験を、惜しみなく伝えるということくらい、人々の心に伝わることはありません。しかも、それを問題として提起したのです。彼女は、生徒たちに注文をつけました。「まず、みなさんだったらどうするか。無理に結論は出さず、多数決をとらないでください。意見もまとめず、自分の頭で考えたことを話し合いましょう。人と意見は違ってもいいから自分の意見を述べるようにしてください。そして、なぜその結論が出たか説明してください」。この演出、プロデュースの良し悪しで授業の成果はとても違ってきます。
意見を交わし合う
さて、活発な議論が行われ1人ひとりの答えが出ました。「もうこの人は生きられない。まだ生き残れる力を持っている人がいるのだから、次の人に酸素ボンベを残しましょう」「せっかく目の前にある命を全力を挙げて対応するのが医者の仕事だ」「どっちとも判断がつかない」。また、息絶えようとしているその人自身になって考え「自分は犠牲になってもいいから他の人のために酸素ボンベを使ってください」などいろいろな意見が出ました。正解というものは簡単に得られるものではありません。学校教育では、たった1つの正解を求めがちです。「カオ」じゃなければだめ、「ツラ」ではだめだとなるのです。そうではなくて、いろいろな立場に立って、いろいろな見解がありうるということを交換し合うことが教育活動の本質、本来の学習であると捉えるべきだと思います。
矛盾を生き抜く
共育と共生は一体
共育と共生は切り離すことができない一体のもので、共生が理想であるならば共育がなくてはなりません。そして、おそらく経営の原理というものは共生への貢献をめざしているのではないでしょうか。経営の原理の中に、共生と共育という重大な問題が重ね合わさり存在していると言えます。しかし、共生や共育、社会貢献ばかり考えていたのでは、現実社会に適応できないことも明らかです。お金を稼がねばならない、けれども人間が育たなければならず、人間の連帯が生じなければならない。その矛盾を感じているかどうかで大きく違います。矛盾を生き抜いて知恵を出していくことに学習の意味があり、共生の課題があります。
創造の喜び
両眼を持って苦しむ、あるいはそれを考えることを楽しむ、創造の喜びを苦労の中で感じているということが大事なポイントです。どちらかに割り切るわけにはいかないのが現実です。これが、もし片一方だけならおもしろくないと思います。やはり抵抗するものがあって、人間は次々に新しい人間関係をつくり出し、新しい人間が育ち合うことをつくり出すのだと思います。ここで、共生、共育のためのヒントを考えてみたいと思います。ヒントというのはあくまでヒントであって、どうする、こうするのマニュアルではありません。亡くなった妻が「お父さんが言ったり書いたりしていることは自分のできないことだ」と言っていました。まさに図星です。ヒントは、こうありたいという私の願望ですから、教訓と受け取らず、なかなかできにくいものだと思いながら受け止めていただければと思います。
ヒント@
「1人ひとりの違いを認め合う」
人間だけでなく、あらゆる多細胞動物はみな違うということが明らかになっています。細胞の中にある遺伝子をのせたDNAの組み立てが1人ひとり、1匹1匹、1本1本すべてちがっているのが自然の摂理です。「ちがうべきだ」ではなく「ちがってある」という科学的事実に、自然の摂理に従う、そういう方向に努力することがよいのだと思います。夫婦であっても性がちがう、経験もDNAも違っている。2人の間には断崖絶壁があるわけです。違っているけれど、違いを超えて結び合いペアをつくり、しかもその違いを尊重しあうことが自然のことわりです。しかし、言うのは簡単ですがなかなかできません。「あなたと私はこんなにちがっているのに、よくぞ意見が一致しましたねえ」となればいいのですが、意見がちがうと双方の機嫌が悪くなります。違いを大事にし合うのが基本的人権の精神ですから、私たちは日常生活の中でしょっちゅう憲法違反をしているというわけです。
教養とは懐の深さ
私の教養の定義は、「よい大学を出たとかたくさん知識を持っていることではなく、他人の身になって考える能力の広さと深さ」です。違いを尊重するキャパシティが大きいほど教養がある人だと言うべきでしょう。ちがいを受け入れるには、自分は「不完全」な存在だと受け入れることです。ただし、「不完全」とは「どうせ俺は不完全だ」という居直りではなく、あれもやってみたい、これも知りたいという「前向きの不完全」であってほしいと思います。いずれにしても自分が完全であると思い込むと違いを受け入れることができません。 みんな「不完全」な主権者であり、絶対者の存在を許さず、みんなの知恵を集めて社会を創ろうとなるのです。
ヒントA
「ヒトは自ら変わり続けて自分を創る」
葉っぱの上の小さな卵からあおむしが出て、それがパクパクと葉っぱを食べ、さなぎになり羽化して、バァーっと羽根を広げ蝶になる「はらぺこあおむし」という絵本があります。生き物は自らの力で変わっていきます。自ら変わるという性格は人間ももちろん受け継いでいて、みなさんも〇・1ミリないし〇・2ミリの受精卵から今のような状況になっているわけです。「おのづから満ちくるありてをさな児は手を振り払ひ歩みそめにき」という歌があります。誰かが手を貸してやろうというのを振り払って歩いていく。これが、人間らしい姿になる記念すべき画期的状態です。周りから助言したり助けたりすることは、必要欠くべからざる条件ではあるけれども、原点は「自ら変わる」という力がすべてなのです。
自ら変わる力を持つ
この子はもう駄目、この社員は見込みなしと簡単に決める前に、自ら変わる力を持っている、ある部署に就いたら自分の出番を得て可能性が花開くと考えれば、人間を見る目の幅が広がります。「その気になれ、その気になれ」と言っても、その気になるわけがありません。そうではなくて、自分の持ち味に社会的意味のある場所を持ったとき、あるいは他の人が認めてくれる場所を持ったときに「その気」が成立します。自ら変わるのは、自学自習によってです。そして、学習は赤ちゃんが生まれると同時に始まります。赤ちゃんが泣き出すとお母さんはどうして泣くのか原因を探し、赤ちゃんは原因が満たされるとぴたりと泣き止みます。つまり、生まれた時からいろいろな選択肢に立たされて、うまくいかないときは泣いて訴えて大人に選択肢を考えさせると同時に、自分のどこかが満足したときに泣き止みます。赤ちゃんも選んでいるのです。
「学習権」は人権中の人権
ユネスコ「学習権宣言」(1985年)の中に、「学習権は単なる経済発展の手段ではない。それは基本的権利の1つとしてとらえられなければならない。学習活動はあらゆる教育活動の中心に位置づけられ、人びとを、なりゆきまかせの客体から、自らの歴史をつくる主体に変えていくものである」とあります。これが案外知られていません。学習権は、人権中の人権です。太陽を中心にいろいろな惑星が回っていますが、太陽のところへ学習権を置いてみてください。学習権の周りをまずは親の教育、次に保育者の教育、次に学校教育、次に社会教育という惑星が回っています。1人の人、1冊の本との出会い、そういう小惑星も回っています。教育で人間を変えるのではなく、その人その人のユニークな学習権を尊重し介添えする、演出するというアートが教育です。人生そのものがいろいろな選択によって自分を創っていくアートですから、それをプロデュースするのが親や社長や教師など社会の任務です。
ヒントB
「生命はかかわり合いの中にある」
「ちがい」「自ら変わる」を前提に、個体同士がかかわりを持つ、生命のかけがえない特徴が組み合わさった時に、共生というものが成立するのではないかと考えます。「1人ひとりちがう」「自ら変わり、学習権が基礎にある」「かかわり合いの中にある」という自然の摂理を頭におき、子どもたちや社員の方が自分と違う意見を持ったときに「あぁ、君もやっぱり人間なんだなあ」とワンクッションおいてうまくはいかないけれども工夫する、そのためのヒントを申し上げました。
下りのエスカレータを上る
共生と共育とはかけがえなくつながっているにもかかわらず、現実の社会のあり方の中ではそれは模索する目標であって、すぐに実現するのは非常にむずかしいことです。人間は自然の摂理を犯しながらも、新しい歴史を創ってきました。共生をめざし困難を克服する工夫が歴史を創っていくのだと思います。共生、共育というものは、現代社会では下りのエスカレーターを上るようなことなのです。私は、理想と現実、そのどちらかを否定することは好みません。「下りのエスカレーターを上るようなもの」の方が、人間の生き方の常道だと考えると、人生をエンジョイできるのではないかと思います。違いを認識した時にかえって人間関係はよくなります。また、自ら変わる力をめいめいが持っているのだと思ってつきあった時に共生の関係に近づきます。そして、その二つをもとにしたかかわり方を創造していく。願わくば、一人ひとりが主役になり、みんなが第1人者になることによって、社会参加、社会貢献を遂げていく。そういう社会をめざして前進するということは、共生や共育の理想なのだと思います。理想であればあるほど現実との闘いがあり、その中に喜びがあり悲しみがある、失敗があり成功がある、このように考えます。
問題があるから未来がある
なんとか共に育ち、共に生きる人間関係の修復というところに重点をおかなければ日本の社会は経済大国で滅びるのではないかという危機意識が私にはあります。この分科会が終わった後「実行はむずかしい、困難だ、どのようにしたらよいかわからない」ということになるのではないかと思いますが、それは実は私が希望している結果なのです。みなさんが混乱に陥ってくだされば効果的であったと言えます。問題を持つということは未来があるということです。今の厳しい状況を直視する。そこからどこが手がかりになるのか、困難を1人で抱え込まず、分かち合うということを積極的にやろうではありませんか。「違いを超え、それぞれの人格の独立した成長を尊重し合い、かかわり合っていく」というヒントによる共存と共生と共育を、経営方針の中心において考えていただくことはできないかと問題提起をしました。答えは私にもわかりません。解決方法を一緒に悩みながら考え共に成長したい、そこに未来が見えてくるのではないかと思っています。(文責事務局岩附)