どうゆうき

巡り来る8月15日、戦後63年が経ちます。当然ながら現70才を越えられた人のみが敗戦時と米国占領下における記憶ある体験者であり、全国民が数年にわたり餓じさを味わいました。戦渦の実感ともなれば、戦場となった沖縄は勿論、空襲爆撃をうけた都市及び軍港、軍需生産等所在地域が主であり、本州に限れば愛知が1番激しかったと言われています
▼愛知県には豊川の軍需工場、ナゴヤドームの三菱発動機、愛知時計等軍関連施設は多く、1944年12月13日最新大型爆撃機B29の夜間攻撃90機を皮切りに3月19日、24日は200、210機、5月14日名古屋城炎上には440機の爆撃があり、県下への空爆回数111回、延5200機、投下爆弾1万2000発、焼夷弾100万発以上とあり、照明弾もかなり投下されました。(愛知県警史より)
▼現在の市内名東区で育った義弟によれば、当時周辺は田舎で、流れてくる照明弾を目がけて奪い合い、落下傘の生地は親に、紐はゴマ紐にとしたそうです。さすが旧市内では考えられず、せいぜい撃墜された飛行機ガラスを拾っては擦って甘い匂いを嗅ぐぐらいで、既に縁故疎開や集団疎開で学童は少なかったと思います。歴史として数字は残りますが、体験者の高齢化に伴いその数は減少しています
▼火垂るの墓(蛍の墓)が映画化されました。空襲や家族分散、焼け出され、疎開先の人間関係、空腹の辛さ、浮浪児等、当時が凝縮されている素晴らしい映画だと思います。多分私にはリアル過ぎて観られないと今から承知しています。戦争は絶対にイヤです。

同友会相談役 廣瀬嘉人