第11回あいち経営フォーラム 第2分科会(10月7日)
経営指針で存在価値のある会社に
神谷 文崇氏 メーナントーヨー住器(株)専務取締役

自らの経営姿勢を確立
銀行員から家業へ
私の会社は、アルミサッシやガラスの販売施工をしている会社で、社員数は8名です。父が創業者で、私は専務取締役で2代目になる予定です。売上比率の一番高いお客様は地域の中小規模の工務店で、売上の85%を占めます。残り15%は一般消費者がお客様です。ですから多くの部分が下請という形で仕事をいただいています。
私はもともと大学を卒業して銀行で働いていましたが、7年前に私の働いていた支店が統廃合されるときに、ちょうど今の会社で人が足りなくなり入社しました。私が専務になったのは今から2年前で、仕事は営業の責任者と経営全般を担っています。
経営指針講座に参加
初めて経営指針を作成したときには、実は本当に必要だとは思っていませんでした。当時は同友会に入会して1年半ほどで、まだ同友会の理念や経営指針成文化の意義や重要性などはまったく分かっていませんでした。
しかし若い私があれこれ悩んで考える前に、同友会の先輩たちの知恵や経験の良いところを真似をして取り入れてみたほうがいいと思い、とりあえず一度やってみようという気持ちで経営指針講座を受講しました。
講座に参加した当初、私は経営理念が書けませんでした。講座は7回連続で理念、方針、計画と進んでいくのですが、私は理念が書けないのですから、講座の期間中ずっと何もできないでいました。
しかし講座の最終回で経営指針書を発表する役を引き受けてしまって、2週間で急いで作りました。そうしてなんとか講座の最終回に発表したのですが、「会社でも発表したほうがいいですよ」といわれたので、会社でも発表してみることにしました。
社員の反応から得たこと
お盆休み明けの最初の土曜日に会社の会議室で、父と母と1名の社員の前で初めて作成した経営指針書を発表しました。しかし想像通り、みんなの反応は薄いものでした。
しかし発表が終わって仕事に戻るときに、社員が「こんなこと考えていたなら、今度からは話してもらわないと困ります」とボソッと笑いながらいいました。
その時はなぜ困るのか分かりませんでしたが、後でよく考えてみて、「小さな会社だからこそ将来の計画や見通しを伝えなければ、社員は不安になる」ということに思い至りました。
この時の発表会は反応が薄いものでしたが、経営指針書の発表は続けなければいけないと思うようになりました。またこの経験から経理公開もきちんと行うことも決めました。当時は、将来のビジョンもまだはっきりとは示していませんでしたので、せめて現状だけは社員に正確に伝えようと努めました。
今では月次決算を売上から経常利益などの勘定科目がわかるところまで、毎月の会議で報告しています。

中小企業だからこそ
指針発表会で社員に自信
初めて指針書を作ってから2年後の2005年には、指針書の中にビジョンを入れるようになりました。まずは社員2人と私の3人で5年後の会社について考えてみようということから始めたのです。
初めに社員に対して投げかけたのは「5年後の給料がいくらほしいか」ということでした。すると社員の1人が「今の倍くらいほしい」といいました。
しかしこのままの社員数と仕事量なら無理なので、お客様の数や仕事の仕方についての将来のビジョンをひとつずつ話し合って積み上げていきました。そしてそのビジョンをもとに中期計画の数字を決めていきました。
せっかく社員と一緒に経営指針を作ったので社員に発表してもらおうと、仕入先の所長や会計士、金融機関の次長に来ていただいて発表会を行いました。
社員にはそれぞれが作った計画について発表してもらい、父や母やパートさんにも5分くらいずつ行動目標を発表してもらいました。
この発表会は来賓のお客様から大変好評でした。銀行からは「こういう会社なら支援していきますよ」といわれました。すると、社員も初めは経営指針の作成を半信半疑でやっていましたが、自分たちのやってきたことが無駄ではないと思うようになって自信が出てきたようでした。
PDCA〜実行できる計画に
翌年の2006年には、同友会の同じ地区の会員を指針発表会に誘ったら、6名もの方が参加してくれました。
人に見せるということで、この時には社員が自発的に残業しながら経営指針を作り直しました。この経験は、社員が経営指針を作ることへの関わり方を深めたいいきっかけになりました。
しかし、この頃は実行できた項目は50%くらいしかありませんでしたし、数値目標は一度も達成できていませんでした。ですから実行できる指針書を作ることがこの間の課題でした。
そこで2006年からは経営指針書の中に、数字や担当者だけでなく、そこにタイムスケジュールを記入するようにしてみました。
また計画部分の項目についても、それまでは新たな期が始まっても「検討中」というあいまいな表現が多く、なかなか実行されませんでした。ですから実行できるような計画をきちんと立てて、あとは実践あるのみという状態にしようと、社員と話し合って作ってみました。
これらの試みをした結果、2007年頃からPDCAが行われるようになりました。なにがどの程度進んでいるかを会議の場で確認するようになったので、単なる報告や現状の確認に時間がかからなくなりました。そして経営指針全体の達成度合いも分かるようになってきました。
指針に基づく経営でピンチを脱出
2008年の途中から建築基準法改正の影響で仕事が減り始め、月商が通常の6〜5割ほどになりました。このときに1年間の計画では長すぎて変化に対応できないと思ったので、計画の部分だけは半年で作るように変えました。
具体的には入社6年目の工務担当社員を、10月から営業に配置転換しました。これも4月に新卒社員を採用し、工務担当として目途がたってきた頃だったので、決断できたのです。新任営業の社員には、ほとんど新規開拓をしてもらいました。この配置転換が成功して仕事が増え始め、この年は過去最高の売上になりました。
これも経営指針を作って、その指針をもとに採用をしていたおかげです。まず始めに人員整理や役員報酬を減らすということをするのではなく、現在の状況から人を生かすような配置転換をして対応できたのは、経営指針による計画的な経営の表れだったと思います。
「怪我の功名」による変化でしたが、こうして変化に対応できるようになることが私自身の哲学でもありますし、大企業にはない中小企業の強みだと思います。

小企業こそ指針が必要
意見を出し合い危機感も共有
今期は今までとはさらに違う作り方に取り組みました。まず今年は私自身の経営姿勢の確立という部分を見つめなおして理念を変えました。そして経営方針もSWOT分析という手法を使って社員と一緒に作りました。
自社の強みと弱み、外部環境の脅威とチャンスという4項目を社員それぞれが考え、付箋に書いてホワイトボードに貼り出してみんなで意見を出し合うということをしました。
それまでは1人でやっていましたが、こうすることで危機感の共有をしたかったのです。また社員と一緒に考えると、経営者と社員の現状認識や考え方が違っているということも分かりました。
こうした取り組みの結果、今年は新しい方針ができました。今の当社の商圏は、遠くても1時間以内で移動できる範囲のお客様ですが、新築物件の着工件数が減っています。今のように1つの地域に限定した仕事だけをしていては、あまりにもリスクが高いと思い、商品をインターネットで販売することにしました。
もうひとつの新しい試みは、いわゆる「報連相」についての社内勉強会の開催です。当社は工務店とエンドユーザーの間に入って仕事をしますので、ミスのほとんどは「報連相」に関するものです。
また、大手メーカーのサッシを取り付けるという仕事をしていますので、同業他社との差別化をするには、どれだけお客様に安心感を提供できるかが大事なのです。
経営指針は漢方薬
私が経営指針をつくった経験からお伝えしたいことが3つあります。
1つめは、小さい会社こそ経営指針が必要だということです。このことはあらためて声を大にして申し上げておきたいと思います。
会社が小さいうちは社員の定着率が業績に大きく影響します。社員に安心して働いてもらうためには、会社や社員の将来像をきちんとした書面で示さないといけませんし、そうしなければ社員も定着しないでしょう。
社員が定着して少しずつ人が増えてくれば、会社の業績も安定してきて思うような戦略が取れるようになってきます。
2つめは、経営指針を作りはじめてから変化が起きるまでは時間がかかるということです。私は先輩の経営者の方から、10年かかるといわれました。
10年も経つと市場や環境も変化しますし、現在の経営者は引退しているかもしれません。ですから形にこだわるよりも、とにかくできるだけ早く作った方がいいと思います。一度作っても毎年内容を変更していくことはできるのですから。
3つめは、不景気の今こそ始めるべきということです。経営環境が変化しているときは、自社もそれに合わせて変化をしていかなければ生き残ってはいけません。社員と一緒に危機感を共有していくには、不景気の今だからこそ成功すると思います。
様々な話をしましたが、この分科会に参加された方の中から経営指針を作ろうと思った方がひとりでもいればうれしく思います。
【文責 事務局・黒田】