どうゆうき
▼1945年4月10日、私は江田島海軍兵学校に77期生として入校しました。私の衝撃体験は、8月6日の広島に投下された原子爆弾の炸裂の瞬間の目撃者になってしまったということです。広島のあの一発の死者は瞬時7万人、年内に20万人。直接の被爆はなかったのですが、このとき私は16歳の少年でした。アメリカには、原爆を含めて技術力で負けたという意識が私の中にあり、戦後、技術系の学校に進みました
▼時が過ぎやがて日本では、原子力発電所の試作から配置が進行していきました。この技術のもとは原子力潜水艦用で、アメリカは日本に売り込むことに成功し、巨大産業に成長を遂げました。この受け入れから後の日本は、原発を次から次へと54基まで拡大していき、3・11福島県で東日本大震災の被害からメルトダウンの大事故を起こすまでは、安全神話に浸りきっていました。その立地も、地震による被害を受ける可能性の高いことが知れわたり、今国民は驚きと、その後始末に犠牲的労働を強いられています
▼はっきりしてきたことは、原発を停止しても困らないこと。原発に投じられた資金を回せば自然エネルギーの開発を促進できることです。エネルギーの集中生産体制から、地域への分散型管理へ移行する見方が注目され始めています。人類が制御できない技術を使い続けて良いのか。2万年余の後世に放射性物質の後始末を押し付けてよいのか。66回目の終戦記念日を迎える8月。原爆と原発。私達は、多くの苦しみや悲しみから、何かを学ぶべき時に来ていると思います。
名誉会員 幸村 隆夫