どうゆうき

▼戦後67回目の8月。遙かなる時を思い浮かべた。17歳、高知からの復員兵が、無蓋貨車から焼け野原の広島を見た。原爆投下から1カ月後であったか。瞬時に、そして次々に15万余名が死に至り、今日まで後遺症で苦しむ人がいる。第2次世界大戦で何千万人が亡くなった。それぞれに名前があり、家族、友人がいた。人生は戦争で絶たれた。広島出身の14期甲種飛行予科練習生の幾人かは、家族は全滅。特攻訓練基地の本人たちは生き残った。貨車は下関に向かった。無謀にも、少年の目指した故郷は中国の大連で、父母や弟が残留していた

 

▼前年の1944年秋、四国松山港から軍艦に乗って瀬戸内海を渡り、呉市に上陸。戦艦大和建造のドックを左に見て、呉海兵団を見学。分散して少年は集会所に泊まる。1日だけの呉であった。以後ここも焼け野原となった。今ではドックが大型のタンカーを造船している。海兵団跡には海上自衛隊の教育隊が新築され、旧集会所はそのまま、古くさく頑強に残っている

 

▼呉駅の海岸側に建つ「大和ミュージアム」(呉市海事歴史科学館)。館長の戸高一成氏は戦後生まれで、NHKの放送で大反響の、海軍指令部関係者たちが座談した「海軍反省会」の録音テ―プの保存者。「歴史には、素晴らしい、誇らしい事実もたくさんあります。しかし、二度と繰り返してはならない歴史も多いのです」「太平洋戦争を日本の歴史のなかの最後の戦争とするためにも」(「日本海軍はなぜ過ったか」戸高氏共著)と書いているが、僅かでも実体験した者としては、その言葉を信じたい。

 

創立会員  浅海 正義