岡本 利雄氏
鰍「づみや岡本鉄工(大阪同友会)
遊びの南支部
名古屋は学生生活の思い出の街です。卒業後、私学の教師をやっていましたが、
父が入院した一九七四年に現在の会社に入社しました。同友会歴は二十年になり
ますが、同友会理念を理解し、実践しはじめたのは、支部長になってからの五年
でした。
七四年はオイルショックの年で、非常に厳しい経営環境でした。しかも大赤字を
抱え、いつ潰れてもおかしくないような会社でしたが「一生懸命に頑張れば社員
はついて来る」と思っていました。
当時、南支部は五行政区に三百三十社の会員がおり、私はゴルフ会の幹事長を五
年やりましたが「四〜五十人も参加して支部に貢献しているんだから運営費を出
せ」と訴えていました。ゴルフをやらない会員のひんしゅくを買っていたと反省
しています。当時はゴルフ・マージャン・釣など、「遊びの南支部」と呼ばれて
いました。
企業の顔が見える活動を
一九九二年に支部長になりました。当時の三つのグループが、現在は独立して三
支部になり、遊びの南支部が変われば変わるものです。
支部長になった当初の私は「同友会は経営者交流の場、お世話するのが仕事」
「同友会は同友会、経営は経営」などと考えていました。例会も「人を集めること
ができる人が報告者」と参加者数で評価するイベント思考をしていました。
大阪同友会は「感動ある例会づくり」という問題提起をしていましたが、「支部
の実情だってある」「本部方針ばかり実践していられない」と思っていました。
十二月の忘年会が終わってホッとした時期に数名の役員に「支部長の考えがわか
らん」「支部方針がハッキリしない」と言われてしまい、翌日、二人の役員と担
当事務局員が訪ねてきて、現状についての話し合いが始まりました。南支部変革
の原点は、こういう重苦しい雰囲気の中で始まりました。
グループ会も一杯飲みながらの交流を中心にした仲良しクラブ化していますから
「会員の顔は見えても、会員企業の内容は見えてこない」運営がされていたのです。
「名優名作路線」から「名もなく貧しく美しく路線」に
支部長二年目の第一回会合で「学びあい、励ましあえる姿勢を確立します」と宣言、
役員会の前に三十分程の時間をとって、一人ひとりの経営体験発表を始めました。
何回か続けると役員の企業の悩みも出始めて、お互いを身近かに感じる変化が起
こってきました。
役員同士の会社訪問、支部の機構改革に手をつけ「本当に学べる例会とは何か?」
の例会づくりが始まりました。人集めの「イベント主義」から「手づくり例会」
に転換したのです。
これを「名作名優路線」から「名もなく貧しく美しく路線」への転換と呼んでい
ます。名前は知られていなくても日夜経営で頑張っている会員にスポットを当て、
会員一人ひとりを主人公にしようとしてきました。
「同友会宣言」や「わが街同友会」
また役員が率先して「企業と同友会は一体」として実践するために「同友会宣言」
という活動を行い始めました。(表は岡本氏自身が行った「同友会宣言」)
また学べる例会づくりとして、(1)報告者まかせにしない、(2)テーマにそった報告
内容になっているか、(3)必ず報告者の会社訪問を行う、(4)テーブル討論を重視する、
等の取り組みを強めました。
そしてグループが支部に変わった中で、支部づくりへの意識変革の運動が、地域に
目を向けた「公開例会」でした。
地域社会の信頼に応えているのかどうかの「わが街同友会」で、地域に身近かな同
友会づくりをしようと議論しました。
この公開例会は主体的に地域の経営者に声をかける運動として取り組みました。
人が変わるということ
四年間の支部活動実践の結集として遊びの支部が、学びの支部に生まれ変わりまし
た。その過程で多くのリーダーが生まれてきました。
「方針」といいますか、みんなで決めたことをみんなで実践していくことで、私も
含めて、役員自らが変わっていくことを実感できました。
苦しい中でこそ挑戦して結果を出していく、苦しい中だからこそ喜びも生まれてく
る、ということではないでしょうか。
「人は人の態度、行動、実践を見て納得して変わっていくのだ」ということをつく
づく思っています。
【文責 事務局・福島】