父(石井正雄)と私、そして同友会
「日々革新」の努力をせよ!

石井正己氏 東海EC(株)
「大ブロシキ」を一生追い求めて
七月四日に父の社葬を終えましたが、まだ近くに居て、「おい、何を考えとるんだ」「下手な考え休むに似たりだ」という声が飛んできそうです。この一〜二年、父はめっきり足が不自由になり、行動半径が限られて、息子の私と話をすることが唯一の楽しみになっていました。人間の発達や技術の発展、そして経営のことに話がおよぶと喜んで発言し、相づちを打ち、大きな声でユーモアを入れ、周りを笑いに誘っていました。戦後五十年を振り返り、日本の将来には電気エネルギーの発電技術者が必要だとか、敗戦後の日本には農業や畜産の発展がなければだめになるなど、若者らしい「大ブロシキ」で理想や夢を追い求めてきたことなど、くり返し語っていました。
生死の境で浮んだ息子の顔
結局、家族郎党を養う為に今の事業を始めましたが、理想と現実の中で、「良いことばかり話す人は信用できないし、日本人は賢いが、ずるいのはいけない」と当時を振り返って語るなど、人間関係の苦労も多かった様です。この時期に同友会を知り、経営者として労使関係の悩みを持った友人を得て、人生の展開が大きく変わりました。会社も発展し、経営を任す人材もでき、後は後継者問題だという時、河に自動車ごと落ち、人生三度目の生死の境をさまよいます。とっさに浮んだのが息子の顔で、「生きねば」と冷静な判断で生きのびたことを、何度々も私に語っていました。
「これが間接的教育方法だ」
後継者をどう教育するか。この仕上げの時期に中同協の会長になり、東京に全国にと行脚し、人間としての「器」が一周りも二周りも大きくなるのが、息子である私から見て驚きでした。『灯台下暗し』で、親父に対して反抗ばかりしていた私は、社員の「あれだけ熱心に会社経営をやってくれたら、この会社はもっと大きくなるだろう」との陰口を聞いた時、「私が頑張らねば」「これが間接的な教育方法だ」と思いました。この頃から、社内会議など多くの社員の面前で、ど発破がかかる事が多くなり、時には私と論争し、激しく机を叩いて部屋を出ていったことさえありました。「俺は筋が違うことは嫌いだ」との発言を何度も聞いたものです。

青春にして巳(や)む
本当に思い出すと、子供の時に弁当を忘れると学校に届けたり、何か良い事をすると一番喜んでくれた親父。遊び盛りに田植や家畜の世話をさせられて、怨みもした親父。「もういない」……。「人のお役に立たなくなった自分は死んだ方が良い」と何度も言いだしたこの一〜二年。同友会の友人からも、「石井正雄さんは『人生の達人』だったよ!」という言葉をはなむけに貰って、享年八十六歳で「さようなら」した親父。万物諸行無常。「この世の中、すべてのものが片時もとどまらず、常に変化している。それこそが真理だ」「『日々革新』(当社の社是)の努力をせよ」と、今も近くで私に囁く親父。「霊感が絶え、精神が皮肉の霊におおわれ、悲嘆の氷にとざされる時、二十才であろうと人は老いる。頭を高く上げ、希望の波をとらえる限り、八十歳であろうと人は青春にして巳(や)む」(サムエル・ウルマ「青春」より)。父は人生を創造し、まっとうしました。「ありがとう」。