[私と同友会19]
初心忘るべからず
小瀬木 昭三(株)富士ツーリスト(創立会員・北中村地区)
膚で味わった大企業の横暴さ
それは愛知同友会が創設される三年程前のことでした。親の代からの海産物問屋に携わっていた私は、新しい時代にふさわしい商品開発をめざしていました。当時世に出始めたばかりのインスタントコーヒーをヒントに、湯を注げば瞬時にかつおだしのでる「かつおパウダー」づくりに懸命でした。試作品も完成し、南区に小さな工場も造り、十月一日より発売の直前、伊勢湾台風で工場が製品とともに二メートルの高潮で水没。再建の途を必死に求め、大手食品メーカーのA社から当時の金で三百万の資金援助を得て、再建に踏みだしました。A社からは製品の買い取りの話があり、試作品を連日届け、原材料に関する資料も提供するなどの関係が一年程続きました。そうこうしているうちに突然,A社は類似商品を自社ブランドで発売しはじめたのです。特許の問題もあったのですが、製法特許ですから争えませんでした。私の無知もありましたが、大企業の横暴を嫌という程知らされました。
俺だけじゃない困ってるのは
この直後の一九六二年、「中小企業が団結して社会的・経済的地位の向上をめざそう」との愛知同友会創立の呼びかけに賛同し、参画しました。入会後、政策委員会や政策センター、そして愛知同友会協同組合などの活動に参加してきたのも、初心忘るべからずだったのでしょう。昭和三十年代から四十年代の中小企業家の最大の悩みは資金繰りでした。でも「金がない」とは絶対に社員には話せません。もちろん同業者の集まりで、そんなことを言えばたちまち噂が広まり、経営が成り立たなくなります。そんな時代にできた同友会ですから、地区の会合ではもっぱら借金の仕方や中には「頼母子講をつくろう」というプランまで出る始末でした。しかし「俺だけでない、みんな困っているんだ」「異業種の集まりだから話せる」と経営体験の交流が活発になってきました。
体験交流をベースに一歩進んだ活動を
こんな中で社員をパートナーと考える「労使見解」が理解されるようになったり、国民金融公庫と話し合って国の制度融資を活用する途を開いたりして、政策提言活動が始まりました。地区会でザックバランに悩みや体験を話し合うことは、中小企業の置かれた共通の立場を、共通の認識にする上で大切です。このことは今も昔も変わりありません。しかし「なぜ大企業が利益をあげるのに、中小企業は困難が続くのか」「どうしたら安定して利益を生む経営体質を確立できるのか」「経営理念や経営計画をどうして作るのか」などの課題もあります。これらは委員会や支部研究会など、高レベルの会合に積極的に参加して始めて、多くを学ぶことができたと言うのが、私の三十五年の同友会歴での率直な実感です。