活動報告

第49回中同協総会特集(1)第3分科会

7月6~7日にかけて行われた第49回中同協総会の分科会より、愛知同友会会員が報告した第3分科会と第16分科会の概要を紹介します。

【第49回中同協定時総会 第3分科会】
中小企業は平和でこそ発展する

~会員としてどのように学び、取り組むか

川野 登美子氏  かわの 和み (広島同友会元代表理事)
豊田 弘氏  知立機工(株) (愛知同友会副代表理事)

原爆の被爆体験と愛知の平和学習会の報告から学ぶ

川野 登美子氏  かわの 和み

団結すればできる

川野 登美子氏

1945年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下され、当時広島にいた44万人が被害を受け、その3分の1の14万人が亡くなりました。私の家族も、上の兄は母の腕の中で亡くなり、下の兄は全身に大やけどを負いました。当時3歳の私は、原爆投下の瞬間、偶然上に倒れてきた蚊帳のおかげで傷ひとつ負わずに済みました。

私の通っていた幟町小学校6年竹組は、大半が戦争で親などを亡くしていました。クラスメイトの佐々木禎子さんは大の仲良しで、私は「禎ちゃん」と呼んでいました。また彼女は走りっこが誰よりも速く、それを悔しがる男子から「サル」と呼ばれていたほどです。

その年の春、運動会のクラス対抗リレーで、竹組はビリになってしまいました。担任の先生がリレーにはチームワークが必要なことを教えてくれ、放課後にクラス全員で練習することにしたのです。毎日毎日、足の悪い子も一緒になって走りました。

その結果、秋の運動会ではクラス対抗リレーで念願の優勝を果たしました。団結することで何だってできると学んだ私たちは、その後も卒業の前日まで毎日リレーの練習を続けました。

禎ちゃんが入院

翌年の1月、それまで皆勤賞だった禎ちゃんが学校を休みました。被爆による原爆症で入院することになったのです。私は「可哀そう」という気持ちと「もし私だったら」という恐怖に襲われました。竹組の3分の1は被爆者だったので、皆もそう思ったに違いありません。

そこで先生が「竹組の目標は団結じゃったのぉ。友達が苦しい時は一緒に苦しんでやろうじゃないか」と言われたのです。私たちは早速順番を決め、毎日交代でお見舞いに行きました。卒業式では、今後も定期的に禎ちゃんのお見舞いを続けることを約束に「団結の会」を結成しました。

8月に私たちがお見舞いに行くと、禎ちゃんの手足には紫色の斑点ができていました。私が目をやると彼女はサッと腕を隠すのです。その頃から、彼女の病室には小さな折り鶴が増えていきました。「病気が治るまで折るんじゃ。はよう中学校へ行かんと勉強が遅れるけぇ」と、キャラメルの包みや包装紙で毎日鶴を折っていたのです。

鶴を折りながら、禎ちゃんは私に中学校の様子を何度も聞きました。彼女が中学校に行けないことを知っていた私は、不憫に思えて「中学校はおもしろうない。小学校の方がよっぽどええよ」と話をそらしていました。

悲しみ、怒り、後悔

2学期に入り、学校行事が多くなった私たちは、徐々に病室への足が遠のいていきました。そんなある日、禎ちゃんが12歳の若さで永遠の眠りについたのです。

悲報を知った日の放課後、皆で禎ちゃんのもとに走りました。「なんで禎ちゃんが死なにゃーならんのん。禎ちゃんに一体何の罪があったいうんね」。棺の中で静かに眠る禎ちゃんを前に、私たちの深い悲しみは、怒りに変わっていきました。

その時、禎ちゃんのお父さんが、1枚の紙切れを持って先生と話していました。そこには、入院した日からの赤血球と白血球の数字が書かれていました。「白血球が10万を超えると死ぬ」と知った禎ちゃんが、カルテを盗み見して、毎日記していたのです。数字は、白血球が10万を超えた7月4日で止まっていました。それを聞いた私たちは、約束通りにお見舞いを続けなかったことや、禎ちゃんに何もしてあげられなかったことへの後悔で、ただ立ち尽くすしかありませんでした。

思いは慰霊碑運動へ

後日、禎ちゃんのために何かしたいと話していた私たちは、先生から紹介された男性の「原爆で亡くなった子供たちのために慰霊碑を建てる」という提案に賛同し、全国の子供たちから寄付金を集めることにしました。

数日後、全国の中学校校長会議が広島で開かれると聞いた私たちは、ガリ版で手を真っ黒にしながら刷ったビラを持って会場に急ぎました。受け取ったビラを捨てていく先生もいましたが、「応援するけえね。頑張りんさい」と言ってくださる方もいました。その日から幟町中学校に全国からたくさんの寄付金が寄せられました。

1956年、広島市の子供100名が参加のもと「広島平和をきずく児童・生徒の会」が結成され、「団結の会」の禎ちゃんへの思いは、広島全体の子供たちの運動へと変わっていったのです。そして、日本全国の子供たちから寄せられた募金額は、1年足らずで540万円(現在のお金に換算すると5400万円)にも及びました。

命の尊さを伝えたい

1958年、500名の参列者に見守られながら、平和記念公園に「原爆の子の像」が建立されました。「禎ちゃんの霊前でした約束を果たしたい」という思いだけで、中学生活のほとんどを費やしてきた私たちの苦労が、ついに実を結んだのです。

中学校生活を夢見て鶴を折り続けていた禎ちゃん。「生きたい」と、白血球の数を毎日書き留めていた禎ちゃん。どんな思いで1日1日を過ごしていたのでしょうか。

私と禎ちゃんは、同じように被爆をしましたが、私はこうして生かされています。平和で争いのない世の中をつくることが、禎ちゃんや原爆で亡くなった人たちへの何よりの供養であり、それを実現することが私の使命です。被爆者として、クラスメイトとして、こらからも禎ちゃんの話を通して、命の尊さや、戦争は誰にでも起こりうる出来事だと伝え続けていきます。

原爆の子の像の台座には、次のような「心の文字」が刻まれています。

「これは僕らの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」。

「平和問題をタブー視しないで取り組むことが大切」

豊田 弘氏  知立機工(株)

「平和学習会」を始めるきっかけ

豊田 弘氏

2015年8月、ある新聞社から愛知同友会に『安全保障関連法制に関するアンケート』協力の依頼がありました。関係組織で検討したところ、「平和」に関する議論が会内で十分にされていないのに、安易に調査協力し、その結果を愛知同友会の見解のように報道されるのは問題だ、との理由で見送りました。

しかし、政治的な問題だからと口を閉ざすのは、賛成しているのと同じです。そこで、同友会理念にある「日本経済の自主的・平和的な繁栄」を中小企業の立場から考え、一人ひとりが自らの平和観を持つことを目的に、政策委員会主催の「平和を考える連続学習会」が始まりました。この時、中同協顧問の田山謙堂氏の「民主主義を踏みにじる時、危険な運命に国民をさらすのは歴史が証明している」という言葉が、議論を前進させるきっかけとなりました。

戦争のしわ寄せは国民にくる

2015年9月から現在まで7回の学習会を行い、戦争体験、戦時経済、中小企業運動、日本国憲法などの観点から広く「平和」について議論を深め合うことで、同友会理念の崇高さを改めて学ぶことができました。

なかでも私の心に深く突き刺さったのが、第1回学習会報告者の浅海正義氏(みらい経営研究所)の「たとえ『人を殺せ』と命令されても、『思考停止』しなければ、とても人を殺すことなどできない」との一言でした。社会の問題に対しても、私たち自身が『思考停止』してしまえば、あらぬ方向に向かってしまうのではないでしょうか。

戦争のしわ寄せは必ず弱い立場の国民や中小企業に回ります。戦時中、軍需や輸出に貢献しない中小企業は、整理や転廃業を迫られ、最終期にはあらゆる企業が軍需分野に向かわされました。

1957年に同友会を設立した先輩たちは、もれなく戦争を経験し、それによって自由な商売ができない苦しみを味わった当事者だったと言えます。同友会理念の「3つの目的」の全てに入っている「自主」という言葉には、自らの力で立ち上がろうという思いが生きているのです。今ある平和は当たり前ではなく、先人たちの犠牲やその後の途方もない努力の積み重ねの上にあることを忘れてはなりません。

経営理念に照らし、本質を学ぶ

経営の目的は、社員が一人の人間として成長していくことです。そのためにも同友会では、社員の豊かな生き方と、働き甲斐のある仕事が結びつく会社になるすべを学ぶ必要があると考えています。

当社では「何のために働くか」「何のため生きるか」という人間の根本的な議題を考える全体会議を25年間続けています。最近の「働き方改革」についても、「生活」や「余暇」は人間にとってなぜ重要なのかを議論しており、残業を減らし、有給休暇を取りやすくするため、経営者だけでなく社員も「主体者」となって考えています。

最近、同友会で「いかに儲けるか」に関心が集まっているように感じますが、本当に大切なことは、物事の表面的現象に振り回されず、その根源を見極めることです。

私たち経営者は、経営に直接関係ないと思われることも学ぶ姿勢を大切にし、さまざまな問題を常に自らの経営理念に照らして、自分たち、そして社会にとって何が正しい仕事かを考えることが求められます。一人ひとりが物事の本質を見極めようとする努力が、私たち自身を社会の「主体者」へと変え、平和な社会を築く土台になるのです。

相手を認める余裕

「平和」の議論を深める中で、自分とは違う意見、いわゆる異論は一切聞かないという人がいます。歴史認識や平和を勝ちとる方法は人によってさまざまであり、異論を排除する姿勢では議論は進みません。

本来、人間は優しい生き物で、平和を望む気持ちは同じであるはずですが、違いを認めないことによって争いが生じるのは歴史が物語っています。異論にも耳を傾け、違いを認め、解決する道を探ることが大人の行動ではないでしょうか。

【文責 事務局・三宅】