活動報告

第58回定時総会 基調講演(前編)4月23日

中同協50年の歴史と愛知同友会が果たした先駆的な役割

国吉 昌晴氏  中同協顧問(中同協50年史編纂委員)

国吉 昌晴氏

【プロフィール 】
1943年北海道美唄市生まれ。72年北海道同友会に入局、74年より事務局長。84年中同協に移り、85年から事務局長、96年より専務幹事、2006年副会長(専務幹事兼務)、12年副会長(専任)となり、15年より中同協顧問。中同協50年史編纂委員。

4月23日に第58回定時総会が開催され、基調講演として中同協顧問の国吉昌晴氏に、時代を創造し牽引する同友会運動の歴史と理念について報告いただきました。2回に分けて報告概要をご紹介します。

50年史の編纂に携わって

中同協50年史の編纂に携わる中で、同友会の歴史は、常に新たな挑戦であったという意を強く持つようになりました。中同協顧問(現)の田山謙堂氏は、このことを「同友会運動の先進性と普遍性」と仰っています。

同友会を創ってきた先人たちは、第2次世界大戦後の混乱の中、中小企業の持つ社会的な役割を自覚し、「中小企業こそが日本経済の主人公である」との誇りと使命感を持っていました。

同友会の歴史は、誇り高き中小企業家の「自主・自立の精神」で全国展開してきた運動の歴史であり、さらに、企業経営と同友会運動を両輪として取り組むことの大切さを、50年史の編纂を通じて実感しています。

中同協50年の歴史と愛知同友会が果たした先駆的な役割が語られる

戦後直後の中小企業~「傾斜生産方式」

終戦後、日本の生産力は戦前の3分の1にまで落ち込み、国会議事堂の前ですら畑として食料を生産しなければいけない時代でした。そのような状況の中、中小企業は戦後経済復興の担い手として、いち早く立ち上がります。

しかし1946年には、「傾斜生産方式」が実行され、自由経済は事実上終焉します。石炭や鉄鋼などの原材料だけでなく、資金や電力までもが基幹産業の大企業へと最優先に供給され、中小企業は資金難・資材難に見舞われます。さらに、特別税制(戦時補償特別税、臨時増加所得税など)の追い打ちで、中小企業経営は一挙に暗転し、中小企業にとって、いわば受難の時代でした。

「自主的な中小企業運動」~全中協の発足

厳しい戦後の統制の時代、中小企業を取り巻く経営環境改善のため、多くの中小企業経営者が全国で立ち上がり、様々な中小企業団体が結成されます。

その中で1947年に発足し、現在の中小企業家同友会(以下、同友会)の前身となるのが全日本中小工業協議会(略称:全中協)です。

全中協は、「中小企業こそ日本経済の主人公」との自覚を持ち、戦前・戦中の反省から「中小企業は平和な社会でこそ繁栄できる」との確信のもと、「自主的な中小企業運動」を提起し、自主的に結成された団体です。

また、「従業員の人格を尊重し生活を守り、協力して企業を発展させる」ことが活動方針に掲げられていました。このことは、後の同友会の「中小企業における労使関係の見解(労使見解)」の成文化にも結びついてます。

「天は自ら助くるものを助く」~同友会の創設

その後の全中協は、日本中小企業政治連盟(略称:中政連)運動に合流します。中政連の運動は政治の力を用いて、中小企業問題を法律によって強制的に解決しようとするものでした。

それに対し同友会の創設者たちは、中小企業の問題は複雑多岐にわたり、1つの法律で解決できるものではないと考え、また、法律によって強制的に問題を解決するという考え方は、戦前の官僚統制につながるという危惧の念も抱いていました。

そんな人たちを中心に、1957年に日本中小企業家同友会(現在の東京中小企業家同友会)が生まれます。

中小企業問題の解決には、自主的・自立的な活動が大切と考え、同友会の設立趣意書(1957年)には、同友会は「中小企業家の、中小企業家による、中小企業家のためのもの」であること、「天は自ら助くるものを助く」の自覚で臨むことが宣言されています。

「中小企業家同友会」の「家」とは

特に、会の名称に「中小企業家同友会」と「家」を入れたことに大きな意義があります。企業の間には様々な異なりがありますが、経営者個人としては対等であり、平等でもあります。「企業」ではなく1人の「経営者個人」として同友会に所属するからこそ、自由に民主的な活動が保証されるのです。

このように一人ひとりが対等であり、自主・民主という考えを非常に大切にする組織として同友会は設立され、この精神は脈々と今日まで受け継がれています。

5同友会2準備会で設立された中同協(1969年11月東京)

全国3番目の同友会が名古屋で誕生

東京、大阪に次いで1962年に全国3番目の同友会として、名古屋中小企業家同友会(現在の愛知中小企業家同友会)が設立されました。そして東京・大阪・愛知・福岡・神奈川の5同友会(会員数640名)と北海道・京都の準備会も参加して、1969年に設立されたのが中小企業家同友会全国協議会(略称:中同協)です。

その設立にあたっては、1969年の名古屋同友会第8回定時総会で、全国組織の結成を活動方針に掲げていることからも、名古屋同友会が中同協の結成に全力を注いでいたことがわかります。同友会運動の全国センターが設けられたことは、組織の拡大・強化、そして運動の発展に大きな意義を持ちました。

同友会3つの目的 ~活動の成果や教訓をまとめて

全国での同友会の発足や運動の発展とともに、それまでの実践の成果や教訓をまとめ、改めて会の目的や性格の明文化が求められるようになりました。

議論を重ねた結果、1973年の中同協第5回定時総会(愛知開催)において成文化されたのが、皆さんご存知の「同友会の3つの目的」です。注目すべきは、3つの目的には「自主」という言葉が共通して入っており、同友会がいかに「自主」を大切にしているか、よくわかります。

この3つの目的を明文化するにあたって、2番目の目的(よい経営者になろう)を、入れる必要があるのかという議論もありました。

これは、「中小企業経営者無能力論」に関わるものです。中小企業家自身の資質や能力の向上を目的とすることに、自分たちの無能力さを自ら公言することになる、経営努力すれば能力は向上していく等、一部の人たちから反発があったのです。

何度も議論が重ねられた結果、経営体質の強化や経営環境の改善はもちろん大切ですが、経営者自らの能力の向上なしには中小企業の発展を望めない、と結論づけられたことで、現在の「3つの目的」となったのです。

そして、このことが他の経営者団体との大きな違いであり、広く中小企業経営者からの共感を得、今日の同友会発展の1要因にもなっていると思います。

「同友会3つの目的」を採択した第5回中同協総会(1973年7月愛知)

「決して悪徳商人にはならない」

1973年には第1次オイルショックが発生し、戦後初のマイナス成長を記録しました。当時はトイレットペーパーが店頭から消えたり、品薄を理由にした便乗値上げ・売り惜しみが横行したりしました。中小企業も原料・資材の不足や、手が出せない程の材料費の高騰によって苦しめられました。

そんな情勢の中で開催された1974年の第4回中小企業問題全国研究集会(長崎開催)では、大企業・大商社の行動を批判するとともに、中小企業の決意が発表されました。便乗値上げ・売り惜しみをしない、「決して悪徳商人にはならない」との声明文は特筆すべきで、現在の「国民や地域と共に歩む中小企業」という理念の原点にあたるものです。

労使の信頼関係は企業発展のかなめ

1975年には「中小企業における労使関係の見解(労使見解)」が発表されました。労使見解は、経営者の姿勢はどうあるべきかをまとめたものです。当時は労使対立(総資本対総労働)が非常に激しい時代でした。

このような時代に、企業を発展させるためには労使の信頼関係が大切であること。そのためにも経営者の経営姿勢を確立することが出発点になるということを、堂々と会運動の方向として掲げたわけなのです。

社員との信頼関係の確立を明記した労使見解が生み出されるまでには、10数年にわたる先人の努力がありました。40年以上が経った今でも、私たちはこの労使見解から、多くを学ばなければなりません。

全会員が経営指針を ~愛知の提起を受けて

労使見解を実践する過程で、1977年中同協総会(神奈川開催)では「経営指針を確立する運動」を提唱、1979年の総会(北海道開催)では全会員に経営指針の作成が呼びかけられました。

このように経営指針の確立運動が発展するきっかけとなったのが、愛知同友会が1976年に発表した「経営指針~長期不況下で経営を発展させるために」です。この中で「(1)経営理念、基本方針の確立とそれを土台とした全社一丸の意思統一を急げ」「(2)経営計画の作成、その点検と修正を~不動の原点計画と、柔軟、変化の実践活動」などが提起されています。

こうして1970年代に「3つの目的」や「労使見解」「経営指針」といった同友会運動の基礎が確立されたことが、1980年代の大躍進につながっていくのです。

【文責:事務局 佐藤】