活動報告

どうゆうき

▼原子爆弾が投下された1945年8月6日の朝を、母は広島県三次市で迎えました。女子高等学校の学生だった母は、救援活動のため学友と共に爆心地に向かったといいます。原爆投下2週間以内の入市者となった母は、被爆者になりました

▼被爆者は健康保険の自己負担部分が助成されます。それを申し訳なく思ってか、母は「夏の暑い中、救護所には蚊がたくさんいるでしょ。1階ではなく上の階へ患者さんを運びましょう。ご飯は水からではなくお湯で炊いた方が早いですよ」と提案をしたので「こんな私でも少しは役に立ったんだと思う」と遠慮がちに話します。これは認知症が始まった頃からで、多くの惨劇を見て、抑え込んでいた記憶の蓋が、認知症の進行とともに開いたのか、一言一句違えることなく繰り返しこの話でした

▼4年前、愛知同友会で平和を考える連続学習会が行われ、次のことを学びました。戦争は生産力の戦いです。戦争経済に結び付かない中小企業は「整備」の名のもと転業や廃業を迫られ、最終的には強制的な命令を受けざるを得なかったのです。悔しい思いを体験した経営者たちが戦後、「日本経済の自主的、平和的な繁栄」を目的として「自主・民主・連帯」の精神を掲げ、中小企業家同友会を立ち上げました

▼戦争の始まりには常に「正義」の大義名分がありますが、それは「狂気」だといえます。戦後75年が経ち、ほとんどの経営者は戦争を知りません。しかし、私たちには過去の悲劇に想いを馳せ、そこから立ち上がってきた先達の決意を引き継いでいく責務があると思います。

政策委員長  和田 勝