活動報告

愛知同友会60年の歩み(第1回)「道なきみち」を歩んで

変化を飛躍に

初代代表理事の遠山昌夫氏(左・1962年7月9日創立総会にて)

「どうしたら生き残れるか」「経営者は孤独だ」……。酒をくみかわし悩みを語り合う中から、「ザイルが必要なんだ」と誰かがひとり言をいった。高く険しい山に登るには、パーティーを組んで、ザイルで身体を結びあって登るのだ……。(20年史より)

1962年7月に誕生した愛知同友会は、来年7月9日に60周年を迎えます。34名から出発し、今日4000名を超える愛知県下有数の経営者団体に成長しています。

先駆性と時代適応性

60年にわたる愛知同友会の活動は、先駆性と時代適応性に総括されます。先駆性とは、全国の同友会に先駆け「愛知モデル」を提起し、実践してきたことです。

具体的な先駆性には地区組織の提案、同友会の3つの目的の確立、経営理念の成文化や、21世紀型企業(自立型企業づくり)の提言、金融アセスメント法案の署名活動、中小企業憲章の現地視察の実施などが挙げられます。

時代適応性に関しては、創立2年目から始まった地区組織の細分化やその後の支部再編、会勢の増加に伴う組織の硬直化の是正とスリム化をめざした90年代後半の活動改善の取り組みなどです。

「停止した時、おれは奴隷だ」(ゲーテ『ファウスト』)。 詳しくは「愛知同友会50年史」をお読みいただきたいのですが、本稿では特に先駆性と時代適応性の側面から足跡を辿りたいと思います。

全国3番目の同友会として34名で発足

1962年7月9日、名古屋中小企業家同友会(当時/以下、名古屋同友会)の創立総会が、国際ホテル丸栄で開催されました。

東京(1957年創立)と大阪(1958年創立)に続き、全国で3番目の設立で、総会は当日参加9名を含め34名で開催されました。

名古屋同友会が誕生したのは、「独立しても、商売のやり方がわからない」「手形の何たるかもわからない」という未熟で孤独な中小企業経営者が、お互い手を取り合わなければ、経営を維持することも難しかった時代でした。

ある雑誌に日本中小企業家同友会(現東京同友会)のことが載っていたのが同友会設立のきっかけとなりました。

これを読んだ経営者たちが「ああ、これだ」と、東京同友会とも連絡を取りながら、「ぜひ愛知にも」ということで名古屋同友会として創立されたのです。

3つの目的の先駆け ~4つの柱を提起

創立して順調に会勢は伸びますが、65年には130名と、前年度より16名の減少を経験します。構造不況(この年は高度経済成長の終焉と思われていた)という外部環境の変化もありながらも、同友会内部の運動方向をめぐる試行錯誤の結果だと50年史では分析されています。

翌66年には150名と会勢は回復、その後78年まで増勢を続けますが、きっかけとなったのが、66年の第5回定時総会で提案された「4つの柱」でした。

  1. 「会員の多面的な要望に応える会にしよう」
  2. 「経営者の姿勢を正し、企業活動を発展させ、赤字企業をなくそう」
  3. 「中小企業の当然の要求を声を大にして訴えよう」
  4. 「会員を増やし同友会を大きくしよう」

この「4つの柱」(重点方針)に基づき、愛知同友会の活動が展開されます。ここで初めて、会の目的がスローガン(柱)というかたちで明確になったと言えます。

その後、73年6月、地元愛知で開催された第5回中同協総会で現在の「同友会3つの目的」が採択されましたが、その先駆けをなすものでした。

地区別懇談会を始めて持つ(第2地区~地区例会の始まり/1963年7月)

創立2年目から始まる地区活動

66年以降、78年までの増勢のもう1つの要因として挙げられるのが、地区別組織づくりです。設立間もない63年7月、愛知同友会の活動の展開に重要な役割を果たす地区別懇親会、のちの地区活動がスタートします。

地区会の必要性は、「会員が100名を超えると、会員同士のつながりができない」「浴衣がけで気やすく集まり、集まった中で雑談しあい、貴重な経験が交流され、協力がおこなわれることがのぞましい」という理由からでした。

当時100名少しの会員は1~4の4つの地区に分かれて、基礎的な活動を行うことになりました。「知り合い、学びあい、励ましあい」というスローガンも生まれました。

「地区組織は中小企業界に接する会の手足であり、地区活動は会の活動の中身である」として地区活動の経験をまとめ、全国の同友会にも呼びかけている点は、特筆されます。

このように、愛知同友会創立から4~5年は実践的に試行錯誤を重ねながら、会の目的(4つの柱)と地区活動という基礎が据えられた時代であったと言えるでしょう。

専務理事 内輪 博之