鋤柄 修(すきがら おさむ)氏
(株)エステム (中同協会長・南地区)
1941年生まれ、1980年入会、1984年地区会長、1988年労務労働委員長、1992年副代表理事(第3支部長)、1995年代表理事、中同協では2002年幹事長、2007年会長となり今日に至る。
労働組合ができた
私と同友会の出会いは、会社に労働組合ができた事から始まります。「これはいかん」と思いました。そこで、どこか経営の勉強ができる所はないかと探していたら、中日新聞で「同友会で経営指針を作成している」という記事を見つけ、藁にもすがる思いで入会したのがきっかけです。
同友会では人の話を素直に聞く事を学びました。同友会は経営者の生きざまを学ぶ所です。価値観もお互いにわかってしまいます。ですから、自分と違う意見から謙虚に学び、実践できるかどうかが命なのです。同友会用語をまくしたてても、自分の会社を他の経営者に見せられないようではいけないのです。
“苦しみの同友会”
同友会に入会して三年目に会長代行になった所から、“苦しみの同友会”が始まりました。ある地区例会で参加者が報告者、司会、私を含めて三名しか集まらなかったことがあったのです。「見とれ~」と思いました。人は理屈では動きません。反発するベテラン経営者。しかし気持ちを通わせ、ランチタイムでの打合せや、会員訪問も勢いで行い、事務局員と間違われることもありました。
代表理事になった時も、ピンチヒッターとしてでした。会勢が下がり、組織が大企業病にかかり風通しが悪かった時期です。
バブルの余韻もあり、九二年には会勢も二千名を突破、九四年には二千三百名会員となるなど、勢いがありました。そこから会勢の停滞が始まります。失われた十年です。組織が動脈硬化していたのです。
活動改善に取り組む
若手の副代表理事五人と一緒に、活動改善に取り組みました。目的は「風通しのいい組織」「それぞれがそれぞれの役割(機能)を果たす」ことにありました。
九四年の「活動の手引き」の大改定に始まり、九六年支部や委員会の役割の見直し、九七年には百数十人いた理事を四十名まで抑え、常任理事会の理事会への一本化を行います。その総まとめが九九年の「九九ビジョン」を策定したことです。
「自立型企業づくり」「地域社会と共に」の二つの旗印を掲げました。このビジョンに沿って支部再編や愛知県への政策提案、「役員研修大学」の開設などを行い、二○○二年より増勢に転ずることができ、今日安定した三千名の会勢を築いています。
トップの仕事は貫き通すこと
金融アセスメントの百万名署名の時もそうでしたが、トップは方針を決定するまではいろんな方と話し、判断材料を集めますが、いったん決定したら断乎その意思を貫いていくことが大切です。これは企業についても同じことがいえます。
二○○二年の創立四十周年の海外視察にEUに行き、中小企業憲章に出会いました。先見性があったと思います。二〇〇三年福岡の全国総会でなぜ憲章が必要か呼びかけました。トップの仕事は軸を貫き通すことにあります。
そして何年か後にそのトップが選んだ道がどうだったか検証されます。その時に、方向が間違っていなかったというふうになるといいですね。その意味でトップは時代を見る目が必要といえます。
長期スパンで見る事務局に
同友会は全員の会費だけで自前の事務局を持っています。会の運営と運動の両輪をまわす事務局には、長いスパンで物事を見て欲しいのです。なぜなら役員は任期が過ぎると入れ替わってしまいブレることもあるからです。そこで同友会が培った知識や経験を、成功も失敗も含めて、生きた情報として後世に継承していく役割が事務局にはあると思います。
また事務局は中小企業診断士の資格を取るなど専門化することも目指して欲しいのです。進んでいる行政は中小企業政策を専門家を置いてやっているのです。事務局も会員の所に行き、会員企業を分析できると心強いです。
壮大な展望を持って
アメリカやEUと同じように日本も完全な成熟社会になってきたと思います。日本で特に深刻な少子高齢化など、今後はどんな産業構造で生きていくか考えなければなりません。また中小企業まで我先にと海外進出してしまっては、国内の雇用が失われ、地域社会で生計を立てる事ができなくなり、日本がやせ細ってしまいます。
「地域内再投資力をつけよう」とは岡田知弘教授(京都大学)の言葉です。その地域の企業と人が生産したものを地元で消費する。これは人とお金の持続的な循環を意味します。これを実現させるのが小さな需要を仕事に変える中小企業なのです。
企業は社会の公器です。利益は手段であり、目的であってはなりません。中小企業憲章の制定にあたっても、同友会の先見性と論理性は目を見張るものがありました。私達の使命は何か、何をこれからしていくべきなのか。これからも皆さんと一緒に考えていきたいと思います。