活動報告

第50回中小企業問題全国研究集会 in 京都(第6分科会)2.アドバイザー報告

若者に選ばれる企業づくり
~新卒採用と共育で新しい未来を創る(2月13日~14日)

【アドバイザー報告】
生きる・働く・学ぶことが実感できる企業に

植田 健男氏

植田 健男氏

若者たちにとっての「学び」とは

明石さんの報告の中に「指示待ち社員」という表現がありました。トヨコンに入ってこうなったのではなく、「普通に学校を出てきた人を採用したら、そういう状態の社員ばかり」だったということです。しかし、私たちからすれば「指示待ち」に見える若者たちはなぜそうなっているのか、これまでどんな教育を受けてきたのか、また、そもそも教育とは何なのか、から考える必要があります。

学校が「学びの場」であるというのは常識かもしれません。しかし、この半世紀で「学び」そのものが形骸化し、「学ぶ」ことで「自分が変わる」という実感を持っている人も、「学ぶ」ことに魅力を感じている人もほとんどいなくなっています。

私が大学で一生懸命に授業をしても、学生は引いていきます。聞いてみますと、「大学に入るまで死ぬほど勉強してきたのに、卒業したら死ぬほど働かなければならない。大学の4年間が唯一、自由になれる時間なのだから、放っておいてくれ」というのが学生の本音でした。進路指導で手持ちの偏差値でいちばん見栄えのするところに来ているだけですから、世間には名立たる大学・学部に入っているように見えても、本人たちは「学び」からはかけ離れた世界にいるのです。「合格するために覚えろ」とは言われても「考えろ」と言われたことがないので、基本的に「指示待ち」状態になるのは当たり前のことなのです。

「生きること」「働くこと」「学ぶこと」

それだけでなく、「社会に出て働く」という実感がありません。「働くこと」そのものに価値があるのではなく、家族を養うためにはお金が要るので「やりたくない仕事であっても働かなければならない」というイメージです。

確かに、勉強すればするほど「良い大学」に行けて、「良い会社」に入れて、「良い収入」を得られて、「良い暮らし」ができるのかもしれない。しかし、「自分が人間らしく働いて生きていく」ということとは全く無関係で、「学ぶこと」「働くこと」「生きること」の3つがバラバラにされた中で育ってきたのです。

かつてはテストで高い点数さえ取れば良かったのですが、今の子供たちは、「意欲・関心・態度」まで評価されるので、高得点を獲得してもマイナス評価をされてしまうのです。こういう「評価」のシャワーを浴び続け、人目を気にしながら生きていて、自分は本当はどう生きていきたいのか、大事にしたい価値は何なのか、が見つからない。若い人たちは、そういう「生き方」をしているのです。

なのに「最近の若者たちは、意欲もないし学ぼうともしない」という見方や、自分たちが若い頃はこうだったという話をすればするほど、相互の理解の壁は厚くなってしまうのです。

格差という悲しい現実

高度経済成長期に学んできた我々には、全員に学ぶチャンス、競争するチャンスがあり、頑張ったら頑張っただけの褒美がありました。1つでも順位が上のほうが、少しでも良い仕事に就けたり、少しでも高い収入を得られたりする。全員がこの競争から落ちこぼれることを恐れ、無理をしてでも頑張っていました。

高度経済成長期に日本のGNPはどんどん膨らみ、得られた富は皆に再配分されました。しかし、この10数年間にみるみる所得格差が広がり、今は上位のごく一握りの人たちが信じられないような富を独占する一方で、下位には仕事も富も回ってこなくなり、階層格差が顕在化しています。これは「学歴社会」を超えて「格差社会」になっているといえます。何も得られない人たちが大量につくられている中で、すべて自分たちの努力不足であり、自分が至らないからこうなったので、格差扱いを受けるのもやむを得ない、という「自己責任」の世界に陥ってしまっています。

しかし、本当は「もっと人間らしく生きたい、意味ある仕事をして社会に返していきたい」という願いを持っていますし、「今はこれしかできなくても、もっとこんなことができるようになりたい、こんな自分でありたい」という夢も持っています。本来、学校は所得や階層など社会格差の現実とは無関係でなければならないのに、それが叶えられない悲しい現実があります。しかし人間である以上は、先のようなまともな要求は必ずあるはずです。

「若者の背景を理解し、人間らしい生き方の実現を」と植田氏

「人が育つ」とは

多くの人は、「教育」とは「先に生まれた人が後から生まれた人たちに知識や技術を教え込むこと」としか見ていません。世間で「○○教育」と呼ばれるもののほとんどがこの意味で使われています。

しかし、実はわが国では戦後ずっと「人格の完成」こそ「教育の目的」であるとしてきたのです(新旧教育基本法)。戦前の教育で国家によって価値が注入され、自分で考えることができない国民が育てられたことで、戦争に突き進むという大失敗をしてしまった。私たちの先輩が75年前の敗戦で考えたことは、国民の一人ひとりがちゃんと自分の頭でものを考えるようになること、一人ひとりの子供たちが人間らしく生きていくことを尊重することでした。

「人格の完成」は難しい言葉なので、私は「人間的自立」と言い換えています。「人間的自立」とは、自らを含めて人を人間として尊重することです。何があっても自分の身体、自分の性、自分の生き方、自分の仕事を大切にし、どんな困難があっても諦めることなく人間らしい生き方を貫いていくことが必要です。それを援助するのが「教育」です。

「ヒト」から「人間」へ

私たちは、生まれた時から「人間」なのではなく、正しくは、生物としての「ヒト」でしかありません。いわゆる「野生児」の研究と言われているものがそれで、例えば、狼に育てられた2人の少女が保護された後どのように育てられたか、という細かな成育録が残されています。2人は生涯、直立2足歩行ができず、したがって両手も前足としてしか使えず、言葉も話せず唸ったり吠えたりすることしかできませんでした。人間に固有の能力は遺伝子の中に全部仕組まれていても、その「可能の芽」を可能に転化させるための「学習」が保障されないと「人間」にはなれないのです。

私たちは誰でも不得意なことがありますが、その多くは、ちゃんとした学習を与えられず、本当はできるはずのことができないままに放置されてしまった、または、誤った学習しか与えられずできなくなってしまった、という場合が多いのです。できない状態のまま放置されてしまい、それが劣等感になって他のこともできなくなってしまう、という負の連鎖が起こってもいます。私たちはせっかくたくさんの能力を持っていても、それを現実に転化させていくための「学習」が保障されることを考えなくてはいけませんし、その「学習」が人間の発達に即したより科学的なものである必要があります。

中小企業家への期待

明石さんは、新卒採用という「困難」を抱え込んだように見えて、実は、まず経営者である明石さん自身が自信を持って経営理念を語れるようになることから新たな展開が始まります。同友会のインターンシップのいちばんの特長は経営者が「働くとは何か」を話すことですが、新卒社員に対しても、経営者である明石さん自身が自分の経営理念を語り、そのことでその意義や問題について気付き、何よりも新卒社員が「働くこと」を実感を持って学ぶことになります。

また、高卒の社員たちが、これまで経験的にやってきたことを大卒の新入社員に教えて、それが実現できていく姿を見て、自分自身の成長意欲を高めるように変わる。経験のある人とない人とが、単なる上下の支配的関係ではなく、アドバイスし合って一緒に学び、相手の変わり具合を見てまた自分も学び直す。そういう関係ができていく中で、「もっと他にもできることがあるのではないか」という発想の転換が生まれます。

経営指針は、「この会社をどんな会社にしたいのか」がベースですから、「1社依存の状態では、この先は難しくなっていくから新規開拓をしなければならない。梱包は得意だけれども人と話をすることは苦手だとは言っていられない。では、どんな力をどうやって付けたら良いのか」ということも見えてきます。

まさに「共育ち」の中で、これまでの自分たちの壁を越えて「学ぶ」ということが、「記憶だけして知識として文字にできれば正解」という見方ではなく、「もっと良い答えを見つけ合えるのではないか、そのためにもっと深い学びをしなければならない」ことが確認されていく。

「人間の発達」は、手垢のついた「偏差値」で測るような、そんな単純で夢も希望もない話ではありません。「これまでの点数だけによる評価そのものが間違いであった」と文部科学省さえが言わざるを得ないような時代に、企業の中心にある「働くこと」を支えるのが「学ぶこと」であり、それらは人間らしく「生きること」と結びついています。

子供たちは学校だけで学ぶわけではなく、地域でも家庭でも、やがて職場でも学ぶようになるわけですから、そういう広い意味での「人間的な自立」が実現できる場になる可能性を秘めている企業かどうかということが、若い人たちが「ここで働きたい」と思える企業になれるかどうかを左右するのではないかと思います。

【文責 事務局・井上一馬】