活動報告

10年後の社会・働き方を見据えた企業づくり(6)「真の多様化の時代へ」

“ウィズコロナ”から考える日本人の働き方

五十畑 浩平氏  名城大学准教授

新型コロナウイルスの流行終息が見えない中、ウィズコロナという言葉も定着しつつあります。名城大学の五十畑浩平准教授による問題提起から、日本社会に根付いた「男性稼ぎ方モデル」や真の多様化について考えます。

「ウィズコロナ」という言葉への違和感

まず私個人の意見として、「ウィズコロナ」という言葉には非常に違和感を抱いています。

1つは、日本は東アジアでは感染者が3番目に多く(講演当時)、決して少ないわけではありません。その中で「ウィズコロナ」という言葉によって、感染不安に対して「やせ我慢」を強いる一方で、感染しても仕方ないという「免罪符」として使われていると感じています。

もう1つは、「弱者」の存在を無視しており、個別の具体的な事情も無視している言葉だということです。例えば基礎疾患を抱えたあるパラリンピック競技者は、「私たちは決して感染できない。『ノーコロナ』だ」と言っています。

結局、「ウィズコロナ」とは諸事情をまったく顧みない強者・マジョリティの論理であって、何かあった際には個人に責任を負わせる「自己責任」と非常に近い意味合いなのではないかと思っています。

マジョリティ=一般、マイノリティ=特殊か?

一般的にはマジョリティ=一般・強者、マイノリティ=特殊・弱者との捉え方がなされています。しかし実際はどの個人もそれぞれ特殊な事情(家庭の事情、特殊な経歴、持病など、ある意味での「弱み」)を抱えて生きています。

それを考えると、特殊な事情を持っている方が多数派=マジョリティであり、「まったく一般」である方が少数派=マイノリティと見ることができるのではないでしょうか。

個々人の事情を見ないで、ありもしないような「一般人」というカテゴリーに当てはめられた多くの人が、実は特殊な事情を抱えているにもかかわらず「やせ我慢」をして、みな「一般」(ノーマル・スタンダード)であるかのような振る舞いを貫いてきたのが実態だと思います。

「男性稼ぎ方モデル」を考える

以上の考察を踏まえ、日本で長年根付いてきた、一般男性が働いて家庭を支える「男性稼ぎ方モデル」を考えてみます。ここで言う一般男性とは、生活感を度外視したデータ上の存在です。

実際は一人ひとり様々な特殊事情を抱えているにもかかわらず、そうした一切の事情は無視され、一括りに「一般男性」とされて長時間労働させられてきたのではないかと考えます。

このことは「ウィズコロナ」を巡る「やせ我慢」の風潮とよく重なります。

「一般」であることを強いられる同調圧力にさらされた多くの「一般男性」は、他人と違うように振る舞えば「一般」から外れ、「アブノーマル」の烙印を押される恐怖をずっと抱き続けてきたのではないでしょうか。それを考えると、ある意味多くの男性は「弱み」を見せることができない点で、被害者であると言えます。

また女性については、その仮想の「一般男性」のスタンダードに合わせて働いたり生活したりしてきたわけで、さらに大きな被害を受けてきたと言えるでしょう。

真の多様化を展望して

多様化やダイバーシティについては、これまで様々に議論や実践をされてはきました。しかしその対象は「一般」化された女性、高齢者、社会的弱者、要支援の家庭、LGBT、人種などで、一人ひとり異なる事情を抱える個々人に視点が向けられたものではありませんでした。ましてやいわゆる「一般男性」は対象外と見られてきたのです。

そうしたことが原因で、どこか「他人事」の意識が付いて回ってきたのではないでしょうか。これは人を「カテゴリー化」して考える際のジレンマであり、議論の限界がそこに存在しています。

これからの時代、「真の多様化」をめざすには、先述した個別の具体的な特殊事情(自分の中の「特殊」)をさらけ出すことができ、それらをお互いに認め合える風土づくりを行うことが必要ではないかと考えます。

そのためには一度「カテゴリー」を取り払い、個々人に向き合って考えてみることが求められており、これからの協働・共生の1つのあり方につながるものと思います。