活動報告

人を生かす経営推進部門 第1回「労使見解」を深める学習会(5月12日)前編

経営者の責任
~「労使見解」の実践による人間尊重経営とは(前編)

馬場 愼一郎氏  データライン(株)

馬場 愼一郎氏

今年度の人を生かす経営推進部門では、「労使見解」を学ぶ場が欲しいという声に応え、じっくりと深める学習会を6回講座で企画しました。

5月12日に行われた「第1回労使見解を深める学習会」の様子は7月号で掲載しておりますが、今月号から2回に分けて馬場愼一郎氏の報告の詳細を掲載します。

今回は、馬場氏が同友会に入会するまでの経営実践の報告です。

最初のカルチャーギャップ

私は1980年に大学を卒業し、大手企業で9年間勤め、データラインの前身である馬場洋紙店に入社しました。入社前に創業者である父が急逝し、会社には累積赤字と多額の借金があることがわかりました。放棄することも考えましたが、母が名義を継ぎ、会社は存続させました。

当時は景気も良く、売上げも好調、損益は改善されていきました。さらに、安城市に大きな工場を建てることになり、人手が足りず私に声がかかりました。

入社して最初のカルチャーギャップは、社員のプライドの無さでした。当時の私は平社員でしたが、仕事の話で社員と議論はできず、すべて私の言うことが通っていくのです。

もう1つのギャップは、計画が無いことでした。単純な売上げ目標はありましたが、会社の方向性を示すものはありませんでした。そこで、見様見真似で2~3年の経営計画書を作り始めました。

仕事はフル生産で、損益計算書の上での利益はかなり出るようになりましたが、会社には資金のゆとりがありませんでした。当時、売上げの8割を単品に頼る歪な状況も気になりました。そこに、新工場のために何億円という借金をしているのです。さすがに私も心配になり役員に尋ねると、「万一の時は、この土地を売って返済すればいい」と言われ、経営とはそういうものなのかとそれなりに納得したのです。

労働組合をつくりたい

入社して2年目に、最初の試練が来ました。親父の時代にナンバー2だった社員が、いきなりトップクラスの営業社員5人を引き連れて退社したのです。しばらくしてその事件が収束した頃、朝礼で1人の社員が「役員間のゴタゴタで会社組織が混乱するのは問題だ。労働組合をつくりましょう」と明るい声で発表したのです。

この社員は会社思いの良い社員ですが、様子を見ていると外部から人を連れてこようとするので、「組合設立は大賛成。全面的に応援する。しかし、自分たちでやると言った以上、責任を持って社員全員の意見をまとめること。責任は重いが逃げたらいけない」と関係者一人ひとりに話しました。そのうち、この話は雲散霧消してしまいました。

止まらない売上げの低下

1997年の売上げがわが社のピークで、翌年に私が社長に就任して半年後、社内では「Kショック」と語り継がれるほどの事態が生じました。取引先のK社が商品を海外調達にすべて切り替え、半年後には注文がゼロになることがわかりました。

ここからがスタートです。売上げが25%無くなり、その後から年率15%ずつ落ちていき、5~6年で半分になりました。とにかく会社を存続させなければいけない。そのためには、新しい商品を作らねばならない。新しい商品を作るには機械を入れなければならない。機械を入れるにはお金が要る。

いろいろなことを立ち上げるには時間がかかります。時間を稼ぐには資金が必要です。一方で会社の財務状況はどんどん悪化し、どうやって資金繰りをするかに必死になっていました。

会社を引き受けた以上、何とかしなければいけません。しかし、楽しいはずもなく、「俺は何のためにこの会社をやっているのだ」そんな思いが錯綜し、答えは見出せないままでした。

俺の人生はこれでよいのか

社長になって10年ほどは、社員の前で自信ありげに話しますが、内心では「俺は何のためにこうしているのか」という思いが渦巻いていました。同友会で「人間尊重」というと社員を思い浮かべがちですが、その前に自分という人間がいます。自分を尊重し、自分が納得できなければ、社員が納得するわけがありません。

まずは私が安心したいと思い、「わが社は何のためにあるのか」「どう生きていくのか」を中期計画として形にしていきました。このとき作った経営指針は、不十分だったかもしれません。だからこそ、私は、社員や周囲の関係者に聞いてもらいたくて仕方がありませんでした。さまざまな意見や感想をもらい、気づくことも多々あるからです。

ある人からは、「おたくの社員は、こんなむずかしいことばを理解できるのかい?」と言われました。確かに学者並みのことばが並んでいました。しかし、社員たちには、内容はよくわからなくても「社長は何とかすると言っている」ということだけは伝わったと思います。

参加者の顔を画面越しで見ながら報告を行う

社員が人生を託せる会社へ

「人間尊重」とは、社員の「この会社に自分や家族の一生を託してよいか」という社員の疑問に応えることだと思います。わが社の場合、社員は売上げや借金の状況を知っており、会社の行く末に不安を抱いていたはずです。私と社員の不安は同じで、それが経営指針を作るきっかけとなりました。

明日の仕事を考えるのは、経営者の役割です。新規事業を模索し、2005年に紙加工の会社から可変印字の仕事を受注できました。これがわが社の第2創業なのです。

それまで印刷職人の塊だった会社が、コンピュータを操作してデータを扱うのです。3日間1睡もせずにものを作り続けたことも、名古屋中に散らばった印刷物を回収するために郵便局を駆けずり回ったこともありました。

社員と一緒にターゲットを決めて仕事をする、波を一緒に越えていく。これが、同友会のいう「共に育つ」過程そのものだったと思います。

司会の五十嵐寛氏(イガラシ金型製作所、左)、部門長の吉田幸隆氏(エバー、中央)、報告者の馬場氏は会場に集まり配信した

今できることを伝える

メインだった商品は、引き続き売上げが年率10%ずつ下がっていました。立ち上げたカスタムのコンピュータ用の帳票は頭打ちになり、新規事業の売上げは伸びていましたが、初期投資やムダもあり、やれどもやれどもお金がなくなっていきました。

ある日、出張先のホテルで眠れなくなりました。忘れようとしても会社の数字が気になるのです。今月は大丈夫、来月も大丈夫、でも数カ月後には回らなくなる。コストで一番重い人件費に手をつけるしかないと考えました。まだ同友会に入る前のことです。

夜中にガバッと起き上がり、幹部に電話をかけ、給料の7%カットを伝えるため明朝、社員を集めるよう指示しました。しかし、それでもギリギリでした。半年後にはまた同じ状況になる――そう思うと眠れません。もう一度幹部に電話して、20%カットでいくことを伝えました。

翌朝、社員を前にいつもより明るい声で会社の業績の話をし、給料を減額させてもらいたいと伝えました。そして、「今は真っ暗だが、あそこに光がある。この道をこう走っていけば絶対に辿り着ける。だから一緒にやってもらいたい」とお願いしました。この時、社員は無反応で、朝礼はそのまま解散となりました。

その翌日から、会社に行くのが怖くてたまりませんでした。社員は来ているだろうか、来ていても機械は回るのか、社員が3人集まって話をしていると何を話しているのか気になって仕方がありません。数日間、このような状態が続きましたが、社員はよく頑張ってくれました。この時、辞表を提出したのは、入社して半年未満の2名の社員だけでした。

社長になって7年後、2005年に同友会に入会しました。最初の印象は、同友会が言っていることは正しいけれど、「本当にそうなのか」と違和感でいっぱいでした。

去る社員、ついてくる社員

ある時、わが社のナンバー2が、プライベートで事件を起こしました。私はその社員を、断腸の思いで辞めさせました。営業的にはかなりの痛手でしたが、こうした私の判断や選択を社員はじっと見ていました。

同じ頃、同友会の仲間の社員が社内で横領事件を起こしました。その会員は解雇せず、社員を立ち直らせるという判断をしました。どちらの対応が正しいのかはわかりません。

この時を含め、社員を辞めさせた経験は2回だけですが、辞めていった社員は山ほどいます。離職の理由はさまざまですが、私は辞める理由を追うより、今いる社員のことを考えます。残ってくれた社員は、明日もデータラインがあることを信じ、今日の生活を賭けようとしてくれています。その思いに報いることが大切だと考えています。

【文責:事務局・岩附】

【データライン株式会社(DL)】

資本金 3000万円
年商 12.4億円
社員数 30名
事業所 本社(安城)、営業所(東京、浜松)
事業内容 データ処理、可変印刷、コンピュータ用帳票の企画・販売、
販売促進用印刷物の企画・製造・販売、
その他印刷、紙加工、データ活用コンサルティング