活動報告

第24回女性経営者全国交流会 第6分科会(6月29日)

既成概念の壁を破り、しなやかに会社を変える

女子が生まれた…と座布団に捨てられた私の経営者人生

江上 幸江氏  (株)ケアコンシェルジュ

江上幸江氏
愛知同友会の設営で行われた第24回女性経営者全国交流会では、第6分科会で江上幸江氏(ケアコンシェルジュ、中川地区)、第7分科会では鈴木世津氏(ヒューネクスト、北第1地区)、今津悠見氏(アグメント、知多地区)が報告者を務めました。今号より2回にわたって、分科会の報告概要を紹介します。

「ケアコンシェルジュ」とは

自社は、高齢者や障害者向けの住宅改修や福祉用具のレンタル・販売を行っています。現在の社員は10名、経営理念に「あったかいこころで紡ぐ信頼の絆~人と寄り添い、人を思いやり、人が笑顔で暮らせる毎日に貢献します」と掲げ、2025年ビジョン「地域福祉のリーディングカンパニーを目指します」を社員と共に実現しようと奮闘しています。

男性優位社会で育つ

「先祖は源氏で由緒正しい家柄」という家の長女として生まれた私は、「なんで生まれたのが男じゃないんだ」と父から座布団に捨て置かれたそうです。これは、のちに母から聞きました。3年後に生まれた弟は「跡取りだ」と可愛がられる一方で、「お前は女なんだから弟の面倒を見ろ」と言われて納得できなかったことを覚えています。

私が5歳のころに父が起業し、苦労する母を見て「大手企業のサラリーマンと結婚する」と決心しました。当時、その夢を叶えるには商業高校から大手企業への入社が近道と考え入学するも、簿記が苦手ということが判明。保育士を志して短大へ進みました。

保育士時代は先輩から「常に相手が何を求めているか、先読みした行動をすること。それが相手の信頼に繋がる」と教えられたことが、今でも経営の礎になっています。

保育士を退職、父の会社へ

4年間、保育士を務めて結婚を機に退職。子育てをしながら父の会社でパートとして働くことになりました。

父の会社は、大学と共同開発した機械がヒットし、規模が大きくなっていましたが、バブル崩壊で倒産の危機に陥ります。父と弟は「なんとかなる」と言う一方で、経理を任され、後に総務部長になった私は、資金繰りに駆け回ります。給与も社会保険料も支払うのが難しく、いろんな弁護士に相談して提案されたのが「和議法(*)」でした。

残った負債を5分の1にして10年で返済する約束をし、社員は退社か、弟と共に別の会社へ行くか、父の会社に残るかで分かれました。私は父と共に会社再建を目指しますが、父は懲りずに開発を続けるだけでなく、経営責任を弟になすりつけることに納得できず、退社しました。

(*)和議法
再建型の倒産手続きの法律。1922年4月に制定、翌年1月施行。2000年4月に民事再生法が施行されるとともに、廃止。

父を反面教師に起業

次の仕事を探していると、父の友人から起業を勧められました。夫の友人が建築士で大工を抱えていたので、仕事を受注したら彼らに施工をお願いしようと、1999年5月に有限会社メイワ・プラスというリフォーム会社を起業しました。父の会社の経験から「人を大事にする経営がしたい」「社員、その家族、取引先、お客様を守ることができなければ経営者失格」と強く思いました。そして同時に、同友会に入会しました。

翌年に介護保険法が制定され、当時は1割負担で福祉関連のリフォームができると同友会の仲間から教えられ、私はこの需要を取り込みました。すると、福祉用具のレンタルや販売も介護保険が適用されると分かりました。そこで福祉用具専門員の資格を取得し、高校の同級生だった友人に入社してもらって、住宅改修と福祉用具のレンタル・販売の会社を二人三脚で始めました。その後、レンタルの拡大に伴って中途採用や紹介で社員が7名と増えました。

経営理念

組織化への挑戦と夫の病

2007年、大手企業から介護事業(ふぉとりえ)の譲渡を受けるとともに、組織変更をして株式会社ケアコンシェルジュとなりました。社員10名弱の会社から一気に社員25名、パート30名となりました。

そこで経営理念をしっかり共有しておきたいと思って発表するも、ふぉとりえのメンバーからは「社長が可愛いのはメイワ・プラスのメンバーでしょ」と言われてしまいます。これではいけないと思い、毎年、社員と共に共育講座へ参加し、全社員と経営指針を作成して同じ思いを共有できるように努めました。

しかし、社員を1つにしようと奔走していた時に、夫が脳出血で倒れてしまいます。麻痺も残り、私は半年もの間、夫の介護中心の生活となり、出社できない日もありました。その間に幹部を中心に社員はまとまり、「任せて安心」と思ったのと、事業承継を見据えて2人の幹部を同友会へ入会させることにしました。

しかし、1人は自分も経営をしてみたいと独立起業。もう1人はやむを得ない事情で退社することになります。起業する幹部が抜けてしまうと任せていたふぉとりえは立ち行かなくなると思い、彼に事業譲渡しました。

今振り返ると、彼らに「任せる」ことをしていたのではなく「放置」していたために、このような結果を招いたのだと思います。何か疑問に思うことがあっても「任せているから」と口を出さず、何も対処しなかったのがいけなかったのです。

企業方針

失敗を取り返そうともがく日々

混乱した社内をまとめるため、私は尊敬する松下幸之助さんの下で働いていたコンサルタントを迎え入れました。すると社内が一変して、「江上の会社じゃない」と退社が相次ぎます。結果、創業当初の社員が残ったのですが、お客様の信頼が下がっただけではなく、「個人商店化」が進んでいたことで「誰が担当しても同じ対応ができる会社」ではなくなっていました。

これらはすべて私の責任です。現場に入り、チーム体制を強化することにしました。この状況を見かねた娘は、福祉関係で働いていた婿と共に入社してくれました。新たな仲間と共に、立て直しが再び始まります。

けあこん仲間の10か条

危機が来るたびに役員として学ぶ

私の経営者人生は、会社で大きな転機が来るたびに同友会で役員を引き受けるものでした。

最初の幹部2名が退社する時、私は地区会長になる直前でした。地区役員には「こんな私でもついてきてくれますか」と1人ずつ意思確認をして回りました。これは会社も同じで、「会社が大変な状況になってしまったけれど、ついてきてくれますか」と社員に聞いて回りました。

コンサルタントを入れて退社する社員が続出した時には、女性経営者の会代表を務めました。地区と違って愛知県全域にこの組織の活動を知ってもらうため、いろんなところで話をしました。社内でもチーム体制を強化するためには、徹底的に話し合うことに力を入れました。

創業20周年を迎えた時、会社は娘など三十代の社員を中心に新たなステージへ向けてスタートしようとしていました。そのタイミングで、役員育成担当理事になりました。

幹部2人が退社して悩む私を見て、同友会の仲間は「人間の成長で考えると15歳は反抗期で幹部が辞めることになって、18歳は未成年が成年になるように会社は形が変わって、20歳でやっと成人になるんだから、そこからがスタートなんだよ」と言ってくれました。振り返ると、この通りの歩みを辿ったと思います。

創業20周年を記念して社員が制作した動画より抜粋

既成概念に気づき会社を変える

共同求人活動に参加していると、娘からは「経営指針書の言葉が今の新卒の子には難しいと思う」と指摘されました。そこで若手の意見を取り入れ経営指針を見直すことにして、冒頭にお伝えした現在のものに進化しました。

また社員の募集をすると、女性で営業希望、男性で事務希望が大変多く、驚きました。しかし、この考えがそもそも既成概念でした。私にはそういった既成概念がたくさんあるようで、言葉の端々や行動に表れているということに分科会の準備で気づくことができました。

きっと、無意識なものもたくさんあります。とりわけジェンダーや世代に関することは、若い人たちとのギャップが大きいかもしれません。そういった思考をリセットし、自分の中に潜む既成概念を振り払っていき、社員と共に時代の変化に対応できる会社にしていきたいと思います。

【文責:事務局・松井】