活動報告

人を生かす経営推進部門&共育委員会【第4回オープン委員会】10月11日

生きること、働くこと、学ぶこと
~あらためて同友会の「社員教育」について考える

植田 健男氏
花園大学教授、名古屋大学名誉教授

「教育」の最終目的は、人間として一生を全うすることができるようになること、と語る植田氏

人を生かす経営推進部門では、人に関する委員会(※)の課題を会員企業が経営指針に位置づけ、各社で実践することを目標に、学習会を開催しています。

10月は共育委員会のオープン委員会に48名が参加。花園大学教授、名古屋大学名誉教授の植田健男氏を報告者に迎え、人間らしく「働くこと」を求める現場で、「生きること」と「学ぶこと」を結び付けるためにはどうしたらいいのか理解を深めました。

(※労務労働、共同求人、共育、障害者自立応援、協働共生)

学校と「学び」の現状と課題

経営者の皆さんは、学校教育を受けてきた若者たちを企業で雇用しているので、どういった若者が増えてきているのかは実感しておられるでしょうし、そもそも学校で何を教えているのか、疑問を持たれている方も多いのではないかと思います。そうした率直な想いをもとに、私の話を聞いていただければ幸いです。

さて、企業にとって、必要な知識や技能を若い人たちに習得させることが「教育」だという見方が一般的ではないかと思います。多くの場合は、先に生まれて知識を持っている教師、企業でいえば経営者もしくは先輩社員が、後から生まれてきて何も知らない学生、もしくは新入社員に知識や技術を上から下に伝えることを「教育」と捉えているのではないでしょうか。確かにそうした側面が含まれているのは事実ですが、これだけでは訓練の域から出ませんし、それが「教育」の全てというわけではないのです。

学校という場においては、「学ぶこと」ばかりを考えており、その先にある「働くこと」については学校でとやかく言うようなことではない、と考えられているようです。しかし、子どもたちの現状を考えていくと、実はそこに深刻な問題があるということが分かってきました。学校では「学ぶこと」が形骸化しており、その先にある「働くこと」や「生きること」についてのメッセージがほとんどと言ってよいほど伝えきれていないのです。

「教育」の最終的な目的は、人間として一生を全うすることができるようになることにあります。それでなくても、厳しい世の中を自らの力で生き抜いていく必要があるので、困難にどうやって向き合っていくのか、という部分をきちんと教えておかないと、厳しい現実に耐えられない状況になるわけです。

なおかつ、学校教育には必ず卒業があり、その後に家事労働も含めて働くということが待っています。しかし、「働くこと」の意味をきちんと伝えていないと、進学できなかったから働かざるを得ない、というようなかたちで「働くこと」について否定的なイメージだけが浸透してしまいます。

今の若い人たちは学びの中身があやふやで、「学ぶこと」がほぼ覚えるというだけの作業になっているだけでなく、その先の人生を「生きること」、そして「生きること」に必ず結び付いている「働くこと」が、バラバラのままになっているのです。

目当てを持てない若者たち

30年前に名古屋大学の教員になった時、多くの学生がこの大学や学部を選んだ積極的な動機がなく、自分の持ち前の偏差値でどこが最も世間体が良く、見栄えが良いのかという基準でしか考えていないことに驚きました。勉強さえできれば、本人の意思とは無関係に「進路」が振り分けられていくような実態があり、その結果、ほとんど関心のないところで学問を迫られるというのは、見た目は別としてそこには大きな苦痛が生まれます。

私も学校生活の中で多くのものを諦めて入試の勉強をしましたが、その代わり、大学に進学できたら、自分自身が学びたいと思っていた教育学というものを思いっ切り学べるという期待感を胸に入学し、希望に満ちていました。ところが今の若者たちはそうではありません。

先のような事情でそもそもその「進路」先自体、自らの意思で選んだところではない(不適応進学)ということもありますが、それまで体験してきたことを突き詰めてみると、「自分たちは、大学に入るまでに死ぬほど勉強をしてきた。しかし、その大学を卒業したら父たちのようにやりたくもない仕事に就いて、今度は、家族を養うために死ぬほど働くことになる。だから、本当に自分がやりたいことができるこの4年間は自由でいさせてくれ」というメッセージを出していたのです。

それはあまりに純粋な投げかけであるがゆえに、その溝の深さに私自身たじろいでしまいました。そういう学生たちを相手に「教育とは何か」という学問的な問いを投げかけるのは非常に困難であるとしか言いようがありません。

これまで私たちが「学力」と言ってきたもののほとんどは、「受験学力」のことを指しています。そうやってせっかく身に付けてきた知識と知識を結び付けて、何かを創り上げたり、自分のより良い生き方につなげていけるのかと言ったら、まずそうではありません。これまでの「学び」を振り返り、これからの自分の生き方や働き方につながるような学びに読み変えていくことをしないと、いつまでも過去の栄光、あるいは過去の敗北を引き摺って生きていくことになります。

「教育」と「学び」の原点を考える

教育と学びの原点を考える時、そこには「果たして、人間の赤ちゃんは生まれた時から人間なのか」という問いがあります。放っておいても勝手に人間に育つでしょう、というのが一般的な理解だと思います。

「教育とは何か」という問いに対して、「教育とは、子どもたちが人間になるための大人からの激励(贈り物)」という説明をしてくれた元中学校の校長先生がいました。中学生にもなれば、もうとっくに人間になっているのではないかと、この説明に引っかかる人もいると思いますが、私は「大人からの激励」という表現はある意味的を射ていると思っています。

なぜかと言うと、私たちは生まれた時から「人間」なのではなく、生物としてのカタカナで書く「ヒト」でしかありません。人類には、長きにわたる進化の歴史があり、人間になるために必要なものは全てその遺伝子の中に刻まれて生まれてきているはずなのです。ただ、赤ちゃんに栄養を与えて時間が経てば「人間」になるかと言われたら、それは違うのです。いわゆる「野生児の研究」がそのことを示しています。

必要な時期に、発達を保障するためのきちんとした働きかけをされ、自ら学ぶということがなければ、本来であれば人間ならできるはずのことも、できないまま終わってしまうということが起こってしまうのです。多くの場合、それは遺伝の問題だと言われて終わってしまうことが多いのですが、不得意だと思っていることも、何か原因があって発達のきっかけを得られず、結果としてできないままになってしまっていることがあります。

子どもたちに対して学習を保障するとは

例を挙げると、跳び箱の5段目が跳べない、いくら走っても遅い、これもしばしば親からの遺伝の問題にされています。

跳び箱の4段目まではみんなが跳べたのに、その次の5段目となると跳べる子の数が途端に減ってしまうということがよくあります。その時に先生がどんな指導をするかというと、ありがちなのが助走距離が短くてスピードがつかず、しかも踏み切りが弱いから跳べないのだ、というわけです。いかにもそれらしいアドバイスですが、これは実は、跳べない原因をきちんと踏まえていないのです。

多くの場合、跳び箱の5段目を跳べない理由は、跳び箱の上についた手の平の上を自分の体重の重心が移動する感覚がつかめないことや、腕の力が弱くて肘が崩れてしまう、あるいは腕を突っ張ってしまって尻もちをついてしまうということにあるのです。

この場合に適切な指導というのは奇想天外なものなのですが、跳び箱の上に尻もちをついてしまった状態で座らせて、股の間に手を置いて、体重を乗せ少しずつ前のめりになりながら、我慢ができなくなったところで、ぴょんと飛び降りるという練習をすることです。ほとんどの場合、これで跳べるようになります。

また、走るのが遅い子には「死ぬ気になって走れ」というのがありますが、それでは指導になっていません。言われた通りにすると、逆に、タイムは落ちてしまいます。

なぜ走りが遅いのかというと、まっすぐ走っていないだけという非常に単純な理由によっているのです。陸上選手が練習をしている時のように太ももを上げて、両腕を前後に大きく振ると、身体がぶれなくなります。その結果、直線に近い状態で走れるようになり、タイムは上がっていくのです。

自分の経験則だけでアドバイスをしてしまう。いかにもそれらしく思われるので、その指導に従ってみると、本当にできなくなってしまう。こんな経験を私たちはいくつもしてきたのではないでしょうか。どうしてそういう問題が起こっているのかを考えて、それに対して最も適切な働きかけは何かを考えていくことこそが、子どもたちの学習を保障することにつながるのです。

社員教育が、単なる知識や技術の受け渡しだけに終わるものではないとしたら、例えば、社員の人たちが抱えている対人コミュニケーション能力など様々な面で課題になっていることを取り上げて問題の本質を考えながら、その課題を解決していく方法を多様に学び取る術をみんなで探し出して、問題解決を図ることが必要なのではないでしょうか。

自社の社員教育と照らし合わせて討論する参加者

「教育の目的」は「人格の完成」

実は、わが国では「教育の目的」は、「教育基本法」という法律の中に書かれています。日本国憲法と一体のものとして1947年に制定され、2006年には全面的に書き換えられてしまいましたが、第1条は変わらず、「教育の目的」は「人格の完成を目指す」ことにあると書かれています。つまり、知識や技能を与えることを教育の目的としては定義していません。

では、「人格の完成とは何か」というと、非常に難しい言葉なのですが、私は人間として独り立ちすること、つまり「人間的な自立」と言ってよいと考えています。

人間は、十分に脳が発達してしまうと、産道から頭が出られなくなってしまいますので、その前に産み落とされます。生まれた段階では、自分では何もできない、最も未熟な情けない哺乳類なのです。例えば馬は、生まれ落ちてしばらくしたら自分の足で立って、母親の乳房を探り当て自らの命をつなぐことができますが、人間はそれができないのです。

その代わり、人間は生まれた後、急速に脳が成長していき、いろんなことができるようになります。親たちは全面的に依存状態であった子どもたちに自立へと向けた働きかけをするようになります。

ここで大切なのは、周りの人々も含めて自分自身も、「人間」として尊重しきれるようになることだと思います。何が「人間」らしいことなのか、それぞれの答えを自分たち自身で出していく必要があります。先生は自分なりの答えを持っていても、自分の経験や価値観を前提としてそれを子どもたちに押し付けてはいけません。

自らの命、身体、性、そして生き方や仕事などを、もっとも自分が「人間」らしいあり方なのかを探求して大切にし、どんなに大変なことがあっても「人間」らしく生きていくことを諦めず、生を全うすること。どんなに失敗しても挫けずに、また一呼吸おいたら、再び自分の足で立ち上がって生きていくことが「自立」することの意味です。

本当は、それは学校の中で追求するべきことなのですが、「働くこと」を基盤としている企業の中でこそ、リアリティをもって働いている人たちに「生きること」、そして「働くこと」とも「学ぶこと」を結び付けることができるのではないかと思います。

社員教育の原点は「まともな人間」を育てること

社員教育は、同友会理念の中で言っている「人間尊重」が出発点だと思います。人を人間として尊重するということがなければ、本来の教育にはたどり着きません。

大久保尚孝氏(中同協初代社員教育委員長・故人)が「同友会における社員教育」という文章の中で、同友会の社員教育の原点は「『まともな人間』を育てること」と明快に書かれています。知識や技術さえ身に付けさせればよいわけではなく、それを使いこなせる人間として真っ当であること、そのためにも「学ぶこと」が大切なのです。

共同求人活動においてもこの考え方が生きていると思います。人間としての育ち合いの関係を地域に依拠してつくり上げ、それを進められるような企業活動、それができるような経営者、社員を育てていくことが同友会の社員教育の原点ではないでしょうか。

【文責:事務局 下脇】