活動報告

障害者自立応援委員会「人間性を語る夕べ(9)」5月12日

自分の存在意義が明白になった瞬間

大島 良和氏  協栄産業(株)

常務として支えてきた奥様を隣に自らの経営者人生を語る大島氏(左)

障害者自立応援委員会は、人間性を深く学ぶ委員会として、会員の人生観から学び合う「人間性を語る夕べ」を開催しています。経営の「人間性」が最も集約されると話題になり、自らの課題に気づく場となっています。

苦難の道を選ぶ

大島氏は1975年に25歳の時に、父親が創業した協栄産業に入社しました。経営が厳しく継ぐ気がなかった父親の会社を継ぐか、安定したサラリーマンを続けるかで人生の選択に迫られ、苦難の道を選びました。当時は社員数5~6名であったといいます。

一番の問題は、かなりの借入金があり、経営状態は不安定で、資金繰りも厳しかったことです。もう1つの問題は、主力だった自動車部品の生産が思わしくなかったことです。大島氏は、父親が購入してくれた加工設備の活用に無我夢中で挑戦し、元金も返済できるようになり、業績が好転し始めました。

会社が奇跡的に短期間で蘇ったこの時の経験は、自分の宝物だと振り返りました。

社員の一生を預かる

20年間で売り上げは10倍、社員数も50名と増えてきましたが、利益は薄く、自信がある自分と全く自信がない自分が交錯していました。1994年、同友会に入会した頃は赤字続きで将来の展望もなく、廃業を考える日々でした。『労使見解』を手にするも、内容のあまりの厳しさに、怖くて向き合うことができなかったといいます。

こうした迷いの30~40代を経て、大きな転機となったのは、50代でのビジョン達成と新卒採用でした。初めて「この子の一生を預かる」という責任の重さを実感し、『労使見解』を深く読んでは、その子が成長する姿に感動して涙が溢れました。

今まで社員への対応が不十分だったことへの懺悔と、社員を幸せにする責任は自身にあるのだと実感する喜び、この2つの境地を体験した大島氏。深い海の底から水面を突き抜け地上に飛び出すがごとく、自分の存在意義が明白になった瞬間だったと感慨深く語りました。「もし自分に人間性の成長があったのであれば、その師は社員であった」と結びました。