ここから物語が始まる
~障害者雇用の実践報告
青木 義彦氏 (株)サンテック

はじめての雇用
報告者の青木義彦氏は、ソフト開発の個人事業主として1982年に創業しました。大手企業の工場でソフト開発に3年間携わるうち、CPUの性能アップにより受注が急増、専門学校を卒業したN君をエンジニアとして雇用しました。青木氏にとっては初めての雇用で、責任の重圧を実感したそうです。
ところがN君が出勤するはずの初日、出向先の現場から来ていないとの連絡が入り、青木氏がN君の自宅へかけつけるとまだ寝ていました。起こして現場に送り出しましたが、これが3日間続き、安定して自力通勤できるようになるまで3カ月かかり、ずいぶん面食らったと当時を振り返りました。
N君は身体に障害があり、祖母の話から「障害ゆえに親に甘やかされて育ち、叱られたことがない」と育ってきた環境を知りましたが、当時はまず仕事を回すことを優先せざるを得ず、人の成長や育ちへの視点が十分ではありませんでした。
1980年代前半は円高不況で、正社員を解雇し、派遣で労務費を固定費化しようとする企業側の姿勢があらわになってきた頃です。青木氏が出向する現場では、解雇され職を失う人の隣で、自社の受注増の話をするという気まずい体験をしました。
80年代後半はバブル景気で機械は売れ、仕事が増えていきますが、求人難の中、就職活動で何らかの困難を抱える学生たちや、休日の多さや待遇の条件だけで入ってくる人たちを採用していきます。社員が10名を超えた頃に本社を建て、20名になろうとする90年代にバブル経済が崩壊しました。
「雇う覚悟」と「働く覚悟」
ソフト開発の業界が変化し、なんでもできるエンジニアが求められる中で、N君は同じ仕事しかやろうとしませんでした。技術競技大会や研修会などにも参加させ、何かきっかけにならないかと働きかけますが、一向に変わる様子はありませんでした。
やがて、N君が担当する機械のメンテナンスは終わり、仕事がなくなりました。新しい仕事に挑戦するかどうか3カ月の面談を重ねた末、結局は退職となってしまいました。N君は20年間サンテックで働き、40歳になっていました。
その後、同友会に入会した青木氏は、『労使見解』を読み、N君を最初の1週間で見極めていたらと後悔したそうです。20歳で別の道を選んでいたら、また違う人生があったかもしれません。
N君との歩みは、多くの成果と学びがあった一方で、「彼の可能性を引き出すことができず最後まで十分に支え切れなかったという悔いが今も残っている」と青木氏は語りました。
その後、頭脳明晰で誠実なA君を雇用しますが、コミュニケーションが取れず、1から10まで指示待ちで、次第に孤立し、退職となりました。現在、採用して6年目となる発達障害の社員は、最初の2年間、青木氏がマンツーマンでついて教えたそうです。
困難を抱える社員たちの雇用や教育について青木氏は、「同友会理念があるから対応したのではなく、採用難の中、会社を維持し、利益を出そうと取り組んだ。その結果、同友会理念と重なるものが見えてきた」と会社の維持発展が起点にあると語り、会社が社員を選ぶ時代は終わり、いかに選ばれるかの中で、「障害の有無に関わらず『雇う覚悟』と『働く覚悟』をもって雇用に向き合いたい」と報告を締めくくりました。