時代を創る企業家たち 14.佐々木 正喜氏

評論家ではなく、私たちは実践家

 

14佐々木氏佐々木 正喜

愛知同友会顧問

オネストン(株)代表取締役会長(天白地区)

 

 

目から鱗が落ちる

  経営理念の大切さ

 会社創業から八年、多少仕事にも余裕ができ、「ひとつくらいは経営者の団体に入ってもいいか」と考えていた矢先に、東洋工機の長倉喜一さん(故人、当時代表理事)とオジマの尾嶋敬久さん(現会相談役)から同友会を紹介されて入会しました。一九七九年四月のことでした。
 入会してすぐに新会員オリエンテーションに参加し、遠山昌夫副会長(当時、現会顧問、菊水化学工業(株)最高顧問)のお話しを聞いて、「遠山さんという素晴らしい青年社長の話をぜひ聞いて欲しい」と長倉さんのおっしゃっていた意味がよくわかりました。
 当時、愛知同友会では経営理念の成文化の運動を展開しており、その経営理念の大切さ、まさに「目から鱗が落ちる」きっかけを与えてくれたのが遠山さんでした。

 

役は買ってでも受けよ
 入会して翌年、広報委員となり、広報委員会に参加、そこで知り合ったのが鋤柄修さん(現中同協会長)で、以降、良き友であり、またライバルとして、九五年からの会長・代表理事コンビの時代を含め、三十年近いお付き合いになりました。
 私は地区例会には毎回参加していましたが、どちらかというと本部での役職を務め、以降、広報委員長(常任理事)を皮切りに、副代表理事、代表理事、会長等を務めさせていただきましたが、思い出深いのが一九八五年九月、愛知で開催された青年経営者全国交流会です。
 三十~四十歳代の血気盛んな若手経営者を中心に実行委員会が編成されましたが、常任理事会の席上である大先輩から「実行委員長は佐々木さん」と推薦が行なわれ、更に「これを逃したらチャンスはめぐって来ないよ」と誘惑され、これといった異論もなく決まってしまいました。
 毎回の実行委員会では侃々諤々の議論が行われ、深夜に及ぶこともありました。無事に終えることができたのですが、経営者をまとめる難しさと楽しみを教えてくれました。

 

手作り演劇「萌黄色の季節」

 もうひとつ思い出深いのが、愛知同友会創立三十周年を記念して一九九三年二月に行われた演劇「萌黄色の季節」です。当時代表理事だった私が原作と作詞・作曲を担当、出演者すべてが同友会会員という手作りで行われ、会員企業の社員やその家族にも参加を呼び掛け、二千名近い人に鑑賞してもらいました。
 当時はバブルが崩壊し、日本経済が混迷を極めていました。厳しい経営環境の中、同じ中小企業経営者を励ましたいと想いました。ストーリーは「松田商事」の松田社長が同友会で学び、葛藤し、経営指針を作成し、新たにスタートするまでを描いたものです。
 その後、一九九六年二月に愛知で開催された中小企業問題全国研究集会で「萌黄色の季節」をリメイクして上演、全国の同友会の仲間から大いなる共感を得られました。その後、全国の同友会でビデオ上映会も行われました。一生に残る思い出です。

930401同友あいち・萌黄色の季節記事960301同友Aichi・萌黄色の季節II写真

左・『同友あいち』93年4月1日号・『萌黄色の季節』の記事

右・『同友Aichi』96年3月1日号・『萌黄色の季節II』の写真

 

 

「中小企業の事なら同友会に聞け」

 八七年に遠山会長(当時)の強引ともいえる説得に負けて代表理事に就任しました。その後、八年間代表理事を務めさせていただきましたが、翌年の八八年からそれまでの複数代表理事制から一人代表理事制に移行し、初めての一人代表理事ということもあり、その責任の重さを痛感しました。
 代表理事に成りたての頃は「同友会」というと、「ああ遠山さんの会ですか」という反応が、行政や諸団体、マスコミから返ってきました。
 八七年には遠山さんが会長から顧問になり、また会勢も千五百名を超えていましたので、私自身は、恩返しとして「愛知中小企業家同友会」という正式名称を広く関係者に知ってもらおうと努力しました。
 会勢も創立三十周年(九二年)には始めて二千名を突破し、会長に就任する九五年になると、会の名前が正しく知られるようになりました。
 会長時代の主な仕事は会外の諸団体との関係づくりです。特にマスコミ対応では、政治・経済の節目での緊急の取材が多く、入院中にも関わらず取材をお受けしたこともあります。今日では、「中小企業のことなら同友会に聞け」という認識が広がっています。十二年の会長時代に少しは会のお役に立てたのではないかと思います。

 

「一個づくり」に特化
 同友会では地区会のみならず、全県行事や全国会合、中同協の役員会など、あらゆる会合に参加し、優に三千会合を超えます。やはり一番レベルが高いのが、中同協総会や全国研究集会などの全国会合です。最初のころは全国会合に参加して、それが終了した時は、後ろ髪を引かれる想いでした。
 そんな多くの会合に参加し、いろんな経営のヒントをいただきました。「一個づくり」もその成果です。創業からプレス金型部品一筋に歩み、時代は変遷します。
 今は「スピード」「適正コスト」「高品質」の時代。当社では特注製品の製造・販売に力を注いでおり、そこに息づいているのが、「一個づくり」の思想であり、この言葉を二○○八年十一月には商標登録しました。
 また二○○六年版の「中小企業白書」で当社が紹介され、二○○七年二月には「愛知ブランド」の認定を受けることができました。「知って行なわざるは知らざるに同じ」だと思います。私たち経営者は評論家ではなく、実践家なのです。

 

事務局は良きパートナー 
 同友会のある講演会で聞いた経済評論家の田中真澄氏の「俺が俺がの我を捨てて、お陰お陰の下に生きる」という言葉が好きで、生きる指針としています。代表理事・会長と二十年間にわたり愛知同友会のトップ役員を務めさせていただき、この言葉の意味が本当によく解るのです。またこの年齢でも二○○四年十二月から欠かさず毎日ブログを書き続け、自分の見聞きしたことを書き綴っています。
 最後に役員への期待です。役員は中小企業経営者ではありますが、専従職員ではなく交代もあります。一方、事務局は経営者でなくても、専従者であり、専門家です。役員はこの点を認めて事務局を良きパートナーとしなければなりません。表に立つのは役員ですが、それを支えているのは事務局であることを認識して頂きたいと思います。

(「同友Aichi」2011年8月1日号掲載)

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佐々木 正喜(ささき まさよし)氏
 1937年千葉県生まれ。大学卒業後、商社勤務を経て1971年、プレス金型部品商社のオネストン商事(株)(現オネストン(株))を創業し、今日にいたる。
 同友会には1979年に入会、広報委員長、青年経営者全国交流会実行委員長等を経て、1987年から代表理事、1995年から会長、2007年4月より会顧問となる。中同協では障害者問題委員会担当常任幹事を長年務めた。また現在は愛知同友会協同組合の理事長を務める。

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